9月 08

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 石川県、加賀、山代温泉にある、べにや無可有(むかゆう)という旅館へ行ってきた。原研哉さんのおなじみの本、『デザインのデザイン』にて綴られていた文章が引っ掛かっていたから、確かめてこよう、と。

 クールかつコミカルな宿のご主人によると、かつては客単価の安い大衆旅館だったという。その後、どの温泉街も経験したような構造的不況を経て、この旅館のご主人はある決断を行った。高付加価値を追求して転身を図る、と。この旅館の高付加価値は「デザインコンセプトコンシャス」ということだった。建築家・竹山聖さんに旅館の全面的なリフォームを依頼した。そして、肝心のコンセプトは、「無可有」に設定された。

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 <「無可有の郷」とは荘子の言葉で、何もないこと、無為であることをいう。しかしそこには価値観の転倒があり、一見無駄で役に立たないようなものほど実は豊かであるというものの見方を含んでいる。器は空っぽであるからこそものを蔵する可能性を持つわけで、未然の可能性を持つことにおいて豊かなのである。可能性の潜在を「力」と見立ててそれを運用しようとする思想は古来より中国にも日本にも共通してある。竹山聖はこのような「何もない」という潜在性を力とする発想をもってこの旅館を設計し命名した。(前掲著より)>

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 <この旅館の特徴は、中心に大きな雑木林のような庭を擁しているところである。京都の寺の庭のような凝った造りではなく、楓や松、椿、花梨などの樹木が自由闊達に繁茂している。程良く放置された自然の中には往々にして勢いのある天然の造形が満ちる。(中略)無可有のすべての客室の窓はこの庭に向いて大きく開口している。したがって若葉の洪水は豊富な木漏れ日となって窓から室内に流れ込む。部屋は竹山聖が整えた和のしつらいであるが、これは流れ込む庭の景観を受け入れる「空」なる空間である。(中略)

 活けられる山草は「空」の空間が「気」のゆきとどいた「間」であることを示すのみで、プラスの装飾としてふるまうことはない。何もないことが価値であるという発想はシンプルな調度にも行き届いており、樹々を揺らす風の音以外は音らしい音もないこの空間を引き立てている。また、すべての客室には居室の窓と隣接して風呂があり、つねに湯が満ちている。庭を堪能すべく設けられた湯は樹々を映して檜の浴槽一杯にふくらんでおり、そこに身体を滑り込ませると、乱れる樹々が湯とともに浴槽からこぼれおちる。(前掲著より)>

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 <何もないことが価値といっても、それを力として作用させる力は大抵ではない。(中略)未来のヴィジョンに関与する立場にある人は「にぎわい」を計画するという発想をそろそろ止めた方がいい。「町おこし」などという言葉がかつて言い交わされたことがあるがそういうことで「おこされた」町は無惨である。町はおこされておきるものではない。その魅力はひとえにそのただずまいである。おこすのではなく、むしろ静けさと成熟に本気で向き合い、それが成就したあとにも「情報発信」などしないで、それを森の奥や湯気の向こうにひっそりと置いておけばいい。優れたものは必ず発見される。「ただずまい」とはそのような力であり、それがコミュニケーションの大きな資源となるはずである。(前掲著)>

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 さて。「何もないことが価値といっても、それを力として作用させる力は大抵ではない」という原研哉さんの一文、これは本当にそのとおりだと感じる。でも、そもそも、「何もない状態なんてありえねーじゃん。この旅館だって実際いろいろとおしゃれにしつらえてあるじゃん(苦笑)」と嗤うのが正しい態度だろう。

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 べにや無可有の「何もない」って、なんのことだろう。可能性はふたつある。1.何も(することが)ない。2.何も(装飾が)ない。1.についてはそのとおり。たしかに何も(することが)ない。でも、無為の時間を快適に過ごすための仕掛けはいっぱいある。たとえば、ベランダのハンモックだったり、「程良く放置された」庭の木々だったり、乱れる樹々がこぼれる客室露天風呂だったり。2.の何も(装飾が)ないについては微妙なところだ。たしかに、竹山聖さんの建築は、コンクリートとホワイトウッドを基調にしたシンプルなものだ。豪華絢爛な装飾はなにもない。だがそのシンプルな空間は、無印良品に似て、「何もない」ことを過剰に演出するようなものであるとも思われた。何もない、とあらかじめ宣言するからこそ成り立つような、何もなさ。

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 この世の中には、吸引力のある「何も無さ」と、そうではない「何も無さ」が存在している。吸引力のある「何も無さ」は、人為と無為の中間にある。人為によって無為を演出するからこそ、その無為は価値を持つ。剥き出しの「何も無さ」なんて、耐えられるわきゃないし、賞賛されることもないだろう。飼い慣らされた無に、有の可能性が宿る。そしてその飼い慣らしかたが、人間の文化(的洗練)なのだろう。

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 林立する木々の中にただずめば、だれもが、何もない空間に羽を休めるだろう。だが、人間の文化は、林立する木々を、他のもので表象しようとする。竹山聖さんは、その木々を、柱で表現した。林立する柱のただ中で、物思いに耽るような空間が用意されている。これは掛け値無しに素敵な空間だ、と思った。

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 日中は、陽の光と、それに照らされた庭の木々の陰が、側面に模様を描く。夜間は、ろうそくに照らされた柱が、独特な光の勾配をかたちづくっている。

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 その部屋の隣室には、あるオブジェが用意されている。これは蓮池を模したものだという。池があり、蓮の花が咲いていて、水滴がしたたり落ちるさまを、巧みに表象している。

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 仏教において「蓮」は、「泥中の蓮華」と言われ、そこにひとつの意味を持たせるのです。蓮は、決して美しい環境とは言えない泥の中に美しい華を咲かせ、私たちの心を和ませるのです。つまり、泥とは、今私たちがいるこの世界を示し、華は「さとり」を表現しているのです。ただしこの「さとり」とは仏教の特殊な境地を指しているのではなく、私たちの日常的な生き方の中に「さとりのヒント」があるのです。(ref)

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 それにしても、山代温泉は、全国の温泉街の中でも比較的まだ栄えている方だと記憶しているけれども、それでもこの寂れ様だ。「無可有」なんて旅館に宿泊する旅人にとっては、嬉しいにちがいないのだが。

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 山代温泉が位置する、加賀(石川県)は、実に食が美味いところだ。これはもう本当に。山の幸、海の幸、陸の幸、どれもがバランスが取れており、食材の結節点となっている。さらに、食文化自体が発達しているので、「お刺身の舟盛りどかーん」みたいな粗野なことにはならない点も良い。伊豆や熱海は、けっこう悲惨だと感じる。なんかオヤジ臭くなってきたので、ではこのへんで。笑

 100点満点中、87点。東京の高級シティホテル(リッツカールトンとか)より全然好きだ。おすすめ。ぜひ。↓在りし日の大竹しのぶ。

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