8月 03

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 「他人は利用すればいいんだよ」と書いた。これはレトリックでもなんでもなく、自分は心底こう思っている。むかし「信じることの欺瞞」という文章を書いたことがある。「信じる」とは、他人を監視する自分の責任を放棄した場合に用いられる、甘ったれ野郎の弁明にすぎない。

 他人(自分が信じる理想)はつねに自分を裏切る可能性がある。でも、裏切られても、他人を殺すわけにはいかない。そのあとも他人とともに生き続けなきゃいけない。お利口さんな言葉でいえば、「共生」しなきゃいけない。だから、わたしたちは他人を利用する覚悟(他人は利用するしかないという諦め)を持って他人と向き合わなきゃならない。

 他人を信頼したとしよう。他人が自分の期待に応え続けたとき、他人と自分の距離はどんどん近くなって、やがて他人の信仰に至るだろう。期待が膨らめば膨らむほど、期待を裏切られたときのショックが大きくなる。他人への信頼が裏切られたときに憎しみが生じる。信頼と憎しみ、好きと嫌いはおなじことのオモテウラ。どっちも、「他人は利用するもの」というゲーム的態度(ゲーム的覚悟)を忘れて、マジになってしまったから生じる。

 一方、「他人は利用するもの」というゲーム的態度をつらぬいたらどうだろう。他人が自分にメリットを与えてくれる限り、自分も他人にメリットを与えようとするだろう。持続可能なエゴを実現するために。そして、他人が自分を裏切ったら、自分も他人にメリットを与えるのをやめればよい。関係を結ぶ相手を、メリットを与えてくれる別の他人に乗り換えればよい。ただそれだけ。進化ゲーム理論的に最適戦略とされる、「しっぺ返し戦略」で望めばよい。なんて前向きなんだ。憎むかわりに、最後に他人から何をしゃぶり尽くせるのかを考えればよい。

 「理解しあいたい」「わかりあいたい」「信用できる相手でいてほしい」的な欲望って、じつはものすごく危険なものだということに気がついてほしい。理性を保つには、マジにならないことが一番大事なんだよ。たとえば、安倍首相へのバッシングはすごかったけど、彼が主導した政策のうち、どれが自分にとってメリットがあって、どれがデメリットをもたらすのか、きちっと分析した記事はあまり見かけなかった。そのかわり、彼という人間全体へのバッシングがすごかった。みんな安倍ちゃんを信用したかったんだろうなぁ、その裏返しなんだなぁ、と思った。彼が退任しないというなら、彼が提唱する政策のうちで、自分にとって一番利益があるものを、徹底してやってもらおうよ。彼にたいする好き嫌いじゃなくてさ。

 中国に対する「チャンコロ」的な侮蔑だって同じだ。中国に対してボロカス言うヤツは、中国に対してマジになりすぎてるんだよ。歴史責任をどういう風に認め、どういう風に交渉をすすめれば、一番日本にとってメリットがある経済的関係を結べるか。その点だけにフォーカスして話しあってりゃいいものを。過去の罪の償いとか、中国国民とわかりあうとか、どーでもいいって。プライドや自尊心やアイデンティティを賭けるなよ。マジになるなよ。ゲームだというあきらめを持てば、理性は担保される。イライラしたりムカついたりしたら、まずは所詮ゲームなんだということを思いだそう。将来の自分(日本)にとって一番利益になる方向を徹底して追求したら、おのずから答えは見えてくるって。他人を利用しようとするんじゃなくて、他人を信じたり、憎んだり、わかりあおうとするほうが、よっぽど楽で、知性のいらない行為だ。

 恋愛はまたむずかしい領域なんだけど、それは別の機会にでも。


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4 Responses to “マジになっちゃだめ”

  1. K Says:

    「持続可能なエゴ」には共感します。自分もそういう人付き合いを志向する人間で、それがすがすがしいものだと感じます。
    でも仮に、いろいろな事情のために、自分がメリットを持たない(あるいはほとんど持たない)状況に陥ってしまったら、どうなるのでしょう?
    孤独の中で生きなければならないと思いますか?

  2. Gen Says:

    Kさん、はじめまして。
    コメント有り難うございます。
    たしかに、わたしの論立てでは、「じゃあ自分が他人に与えるメリットをもっていない場合は、どうなるの?」と。当然疑問に思われるでしょう。

    「孤独の中で生きなければならないと思いますか?」
    という一文の趣旨がよくわからないのですが、経済的なことにフォーカスして話をすすめます。

    たとえば、自分が明日交通事故に遭い、身体も自由に動かせず、言葉もロクにしゃべれない人間になったとします。親族が裕福でないとします。とうぜん、誰かに経済的に援助して欲しいと思います。だから、社会的なセーフティーネット(福祉制度)は必要だと当然思いますよ。わたしも募金したりするし、福祉政策はもちろん必要だと考えています。でもそれは、同じ人間として最低限の暮らしをする権利を誰もが持っているからではなく、あるいは困っている人間を助ける義務が人にはあるからでもなく、困っている時に援助を受けることができる制度がないと、わたしがいざ困ったときに、死ぬことになってしまうからだとわたしは思います。

    たとえばわたしたちは生命保険にお金を払います。なぜ生命保険に入るか?それは困っている他者を救うためじゃありません。正義感からでもありません。自分が困ったときに誰かに助けてもらうためです。同様に、福祉制度は恵まれない者たちを救うものじゃありません。私が困ったときに私を助けて貰うために、福祉制度は存在するべきだとわたしは考えます。

    なお、利己主義がどのように利他主義につながっていくかの話は、進化的・認知的基盤の議論をふくめて、http://blog.genxx.com/に明日までに書こうと思っていますので、また批判的なコメントをいただけたら嬉しいです。もちろん、今回私がコメントした内容の範囲内でのリプライもいただけると嬉しいです。

  3. K Says:

    遅ればせながら、初めまして。お返事ありがとうございます。

    「孤独の中で生きなければならないと思いますか?」

    これは、自分の持つメリットが少なければ、他人との有意義な関係は築きにくくなってしまうのか?ということだったのですが・・・考えるまでもなく、当たり前のことですよね。
    以前、体を壊したために何も出来ないという、まさにメリットが少なくなる経験をしたので心情的に入れ込んでしまいました。実際に関係が壊れた、ということがあったので。でも他人との関係=メリットの交換という論には確かに強度があるし、「社会福祉」についても、当事者になるかもしれない自分のために、というのはまさにその通りだと思います。

    >>「信じる」とは、他人を監視する自分の責任を放棄した場合に用いられる、甘ったれ野郎の弁明にすぎない

    自分は命にかかわる手術の時に「何もかも先生にお任せします!」という心境になりました。そういった抜き差しならない状況で、切実に「信じる」ということは甘えでしょうか。命にかかわる場面に限らず、普段の生活でも、<死にたくない=1人になりたくない→信じ合いたい、分かり合いたい>というように、他人であっても感情として「信じる」ことは生きる上で必然の要素だと思うのですが・・・

  4. Gen Says:

    Kさん、ふたたびお返事ありがとうございます。

    >自分の持つメリットが少なければ、他人との有意義な関係は築きにくくなってしまうのか?ということだったのですが・・・

    経済的なものは社会制度でカバーするとして、精神的なものについて。同じ理由でメリットが少なくなってしまった者同士の交流(メリットのやりとり)、が突破口になるとわたしは考えています。たとえば、アルコール中毒で精神と身体をぶっ壊してしまった人は、ボランティアやカウンセラーなどとの関係よりも、同じ境遇にいる者どうしの自助グループでの活動を通じて、自らのアイデンティティーを再構築していくとしばしばいわれています。わたしもあなたの話を聞いてあげる、だからあなたもわたしの話しを聞いてね、というような関係です。

    人間の「自分にとっての」メリットを考える場合、進化生物学的にいえば、利害を追求する主体の単位は「わたし」ではありません。遺伝子です。自分の親、自分の子供とは遺伝子を50%共有しています。これはものすごい事だと思います。自分が何のメリットも持っていなくとも、ただ自分が生きているというだけで、親や子供の利益を半分満たしていることになるのですから。だから「やっぱ最終的に頼れるのは家族だよね」というのは本当にその通りなのだと思います。家族内での「ただ生きていると言うだけで自分が肯定される」経験が、人間の活動のあらゆるベース(基地)になっているのだと思う。自分のエゴを純粋に追求したとしても、親や子供を通じて、自分は過去や未来への責任をある程度負っているということです。

    抜き差しならない状況で「信じる」ことは甘えだろうか?という点について。「何もかも先生にお任せします!」になってしまうと、万が一手術が失敗した場合、憎しみが生じてしまうのではないでしょうか?医者の知人はいつも、「手術は確率論的なものであることを患者さんや付き添いの家族は理解してくれない」と嘆いています。わたしの父が脳の大手術をしたとき、わたしは「信じる」のではなく「祈って」いました。成功確率50%という数字を噛みしめながら。。

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