7月 31

 「アンリ・カルティエ=ブレッソン 知られざる全貌」(@東京国立近代美術館)をみてきた。人があまりに多くて、ベルトコンベアーのごとき鑑賞行為を強いられたのだけれども、万感胸に迫るものがあったので、ひさびさに力んだことばで振り返ってみよう。自分も写真をとるので、本当におもしろかった。彼の写真をひとことでいえば、人・ものを配置して生み出す、かたちと意味のリズム(動線)が巧みすぎるんだ。なお、このエントリの最後に、ブレッソンのぞくっとするようなフレーズを並べておきました。

 ブレッソンは、カメラを持っていることをなるべく被写体に気づかれないように努力した。カメラは黒塗りされ布で覆い隠されたし、フラッシュも決して使わなかった。つまり、被写体に対して、みずからの存在を消そうとした。そもそも彼は、ロバート・キャパも所属した「マグナム・フォト」という写真家集団の一員であり、ルポタージュ(ジャーナリズム)的な世界の切り取りを行ってきた。世界に手を加えず写真を撮るのに、なぜこれほどまでに美術的な写真ができあがるのか。その疑問が、自分のブレッソンに対する興味を掻き立ててきた。

■一枚の写真に想う、作者と身体

 美術館の壁にかけられた、一枚の写真は、なにを語りかけるのだろうか。

 わたしたちがある作品に胸を打たれるとき、感動の気持ちは作品のみに向かうわけじゃない。ある作品に感嘆するとき、わたしたちは同時に作者にも感動している。こんな素晴らしい作品をこの世に産み落としたアーティストは一体誰なんだ!どんな思想や生い立ちが、彼(女)の想像力を解き放ったんだ!と。わたしたちの驚きは、壁に掛けられた一枚の写真に対してというよりも、その写真を生み出した人格へと向かう。作品を、作者という文脈から自由にさせることができたならば、どれほど自由なことか。でも、哀しきかな、つくづく人間は人間に興味がある。

 ここで、わたしはブレッソンに思い焦がれる。彼はどのように世界を切り取ったのか?写真家は、彼の卓抜した視覚によって世界をえぐりとると思われがちだが、そんなことはない。目だけで世界をみるわけじゃない。みるという行為は、目以外の身体に深く支えられている。

 たとえば下からみるにはしゃがみこむ必要がある。知覚はつねに動きのなかにある。「知覚するとき、表現するとき、私たちが知っているのは、ただ何かが始まっているという、そのことだけである。何が始まっているのか、そのことはわからないままに、すでに知覚も表現も動き出しているのである」。「知覚は知覚者の死以外では終わらない。表現はいつでも人為的に終了できる。表現とは<終わらせる>ことでもある 1)佐々木正人」。ブレッソンは、「テニス選手が試合中にテニスラケットを構えるように」カメラを持っていたそうだ。あくまで比喩だが、このたとえによって、彼の身体が世界とどのように対峙していたのかが、はっきりと伝わってくる。

■形(フォルム)と意味(感情)の抽象的な濃縮

 「わたしは絵画へのパッションを持ちつづけてきた」とブレッソンは言う。彼は幼い頃から美術に興味をもち、絵画を描きつづけてきた。当時のパリで大きな注目を集めていた、アンドレ・ブルトン率いるシュルレアリスムから、大きな影響を受けて育った。1927年には、キュビズムの画家、アンドレ・ロートのアトリエに入門もした。みずから絵を描くことによって、彼は、西洋絵画の幾何学(コンポジションの文法)をみずからに染みこませていった。

 「絵筆よりも少しばかり早く動かせる道具を使って、世の中の傷痕と動揺の証拠を残したい」という想いから、彼は、写真による表現に関心をシフトさせる(もっとも晩年の彼は写真を撮らず絵画ばかり描いていたのだが)。

 わたしたちが知覚する世界に存在する人やモノは、形(フォルム)と意味の両方を持っている。たとえば、女性の脚はそれ自体なめらかでフォルムが美しいのだが、同時に、性的な意味もあわせもつように。ある写真には、複数の人物や、人物とモノの組み合わせが写し取られる。つまり、それぞれ意味とフォルムをもつ人・モノが、写真上で、今度は複雑な(高次レベルの)フォルムや意味を織りなしていく。

 ブレッソンは、彼の美術(絵画)的な素養から、フォルムに対する抜群の感性を持っていた。そして、人・モノのフォルムが織りなす高次のフォルム(幾何学)から、人・モノがもつ意味の核心を浮かびあがらせることができた。この点が、ブレッソンのone and onlyな点だったのだと思う。

 彼はルポタージュ的な写真家でもあったのだから、人々の「なまなましい」 2)中条省平:ブレッソン展のパンフレットより姿を捉える。でも、そのなまなましさが、幾何学的な美しさの中に配置されるとき、わたしはハッと立ち止まらざるをえない。被写体の意味が、あまりに美しい構図の中に配置されるので、それは抽象的なものとなる。被写体のなまなましい感情や意味が、絵画的な構図の中で、フォルムと同一次元に並置されるのだ。かんたんにいえば、被写体の意味や感情が、幾何学によって、現実から距離を取るようになる(抽象的になる)ので、鑑賞者は自分の物語を自由に投影できるようになるのだ。
 
 写真に映っているあるひとりの人物の表情や行為をみれば、とてもなまなましくて、現実的な意味にあふれているのだが、その人物が写真全体の構図(幾何学)の中に配置されると、とたんに抽象的な存在となり、意味が現実から一定の距離を取りはじめる。

 なまなましい意味は、<動き>や<瞬間性>をもたらしてくれるわたしは思う。他方、フォルムの幾何学がもたらす抽象性は、<静止>や<永遠性>を与えてくれる。彼は、意味とフォルムを、動きと静止を、瞬間と永遠を、一枚の写真にぎゅっと濃縮しているのだ。破綻することなく、奇跡的にも。

■ブレッソンの言葉

 それにしても、ブレッソンの写真にじっくりと自分の物語を投影したかったなぁ。もう少し空いていればよかったのだけれども。混みすぎ。行くなら、平日午前中推奨(自分が行ったのは休日の午後)。もうこれ以上わたしの拙い言葉はいらないと思う。あとは、ブレッソンの背筋が静かにぞくっとするような言葉をお楽しみください。

 私のパッションは、決して写真”そのもの”に向けられているわけではなく、自己そのものも考慮から消し去りつつ、主題やフォルムの美しさから誘発される感動を、一瞬のうちに記録できないかという可能性に、向けられているのだ。言うなれば、目前に差し出された被写体によって呼び起こされる幾何学を得られないだろうか、と。写真のシャッターを切るというのは、私としては素描ノートの一片なのだ。

その一瞬を待つあいだ、私は神経の束になる。
この感覚はどんどん大きくなり、そして爆発する。
それは空間と時間があらためて結ばれた肉体的な喜びであり、ダンスだ。
そう!  そう!  そう!  そう!

 写真は私にとって、持続的な注視から沸き上がってくる衝動といえるものであり、それは瞬間とその永遠性とをつかみ取ろうとするものだ。デッサンは、意識が瞬間につかみ取ったものを、筆跡によって精緻に描き出すものだ。
 写真とは瞬時の動きであり、デッサンは思索なのだ。

 ポートレイトを撮る際に、相手は納得しているとはいえ、犠牲者でもあるのだから、内に秘めた静寂を掴みとろうと欲するとしても、被写体のシャツと肌のあいだに、カメラを滑り込ませるのは、至難の業だといえるだろう。
 そこへいくと、鉛筆でポートレイトを描くとしたら、内に秘めた静寂を得るのは、描き手の方だと言える。

 造形芸術の中で、写真が授けられる位置づけや、占める領域といったものに関する論争には、私はかつて一度も頭を悩まされたことはなかった。
 常日頃から、そうした順位付けなどというものは、まったくのアカデミックな要因にすぎない、と私は見なしているからだ。

 たとえ相手が静物だとしても、用心深い狼のように、そっと主題に近づいていかなければならない。眼光は鋭く、それでも足取りはしなやかなビロードのように。押し合ったりしてもいけない。釣りをする前に、水面を叩かないのと同じだ。もちろん、マグネシウムのフラッシュを使った写真もだめだ。たとえ無いに等しくても、自然光を尊重すべきだ。そうでなかったら、写真家は鼻持ちならない攻撃的な人物だと見なされるだろう。

 私にとって写真というのは、現実の中に、表面の、線の、そして明暗のリズムを識別することである。

 写真における構図とは、同時的な結合、つまり目に見えているさまざまな要素の有機的な組織化なのだ。根拠無く構図を生み出すことはできない。必然性がなくてはならないし、フォルムから内容を切り離すことはできない。写真には新しい造形がある。つまり写真は、瞬間の線に応じた造形なのだ。写真家が動きの中で手を加えるのは、一種の生の予兆であり、それゆえ写真は、動きの中から生き生きとしたバランスを掴み出さなければならないのである。

 写真家の眼は絶えず計測し、評価していなければならない。ほんの一瞬膝を曲げただけで視点を変えられるし、頭を1ミリの何分の一か動かすというちょっとした動きで、いくつかの線をひとつに合わせることもできるのだ。だがそうしたことは、反射運動ともいえる速度でやらなければならないからこそ、幸運にも私たち写真家は、「芸術性」を生み出そうとしなくていいのである。

 シャッターを押したり、被写体から少し離れたところにカメラを構えるのとほとんど同時に構図を作り上げ、ディティールを描き出し、それを自分のものとする。そうしないと、逆に写真家の方が振り回されることになる。

 写真とはわたしにとって、一瞬のうちに、一方で出来事の意味を、そしてもう一方で、その出来事を示す、視覚的に感知されたフォルムの厳密な構造を同時に認識することである。

 わたしたちが自分自身を発見し、と同時に外の世界を発見するのは、生きるということにおいてである。外の世界は私たちを形作るが、私たちもまたそれに対して影響を及ぼしうる。内なる世界と外の世界、このふたつの世界が絶え間なく相互作用をすることによってひとつになるのだが、写真家が伝えなければならないのは、まさにこのひとつとなった世界なのである。

 だが、そうしたことはイメージの内容と関わるしかないが、私にとって、その内容はフォルムと不即不離の関係にある。私はフォルムによって厳密な造形的構造を理解するが、その構造によってのみ、われわれの観念や感情といったものは、具現化され伝達可能になる。写真において、そうした視覚的な構造は、造形的なリズムによる自然発生的な感情としてしかあり得ない。

References   [ + ]

1. 佐々木正人
2. 中条省平:ブレッソン展のパンフレットより

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