7月 27

 “死体なき国の死体写真家” — 釣崎清隆インタビューが面白かった。死生観という意味でも、旅という意味でも、写真=アートという意味でも。impressingだったところをメモメモ。自分も旅をしているときは路上に転がる死体をいくつも見てきたし、事件現場=飛び散った死体の経験もありますが、まぁ、いろいろと。

 死体はアートの存在価値を問う。もっともラディカルに問う。たとえば、死亡した人間の胎児と鳥の死骸を合体させた作品をみたとき、あなたは何を想うか?「それはやりすぎだろ」と思うか?アートは、つねに暴力的だ。日常、誰もが慣れ親しんでいる心地よい価値観を揺さぶるがゆえに、暴力的だ。死体の露呈は、たとえばモラル(道徳)のような、普段の心地よい価値観を、先鋭的に動揺させる。「おしゃれで素敵なアート」ではなく、「生を切り裂くアート」の気迫と狂気がここにはある。あなたの子供が交通事故で轢かれたそのとき、アーティストがカメラのシャッターを暴力的に切っていたら、あなたは何を思うか?あなたはアートにどの程度の覚悟を決めて向き合っているのか?アートという存在価値は、どこまで拡張することが許されるのか?

 以下、強調部は引用者。

*「死体を撮るっていう意味では、戦場は効率がそんなに良くないんだよ。」

*「とにかく戦闘が散発的に起こるからさ、遠く離れた国でニュースで見てる分には、戦闘が間断なく続いてるように見えるんだけど、現地にいると、一発ドカーンってあったら、それっきり一週間銃声も聞かないとか、そんな感じだからね。」

*「やっぱ戦場カメラマンっていうのは、俺とは決定的に人種が違うと思う。彼らの多くはむちゃくちゃモラリストだからね。何の衒いもなく正義を声高に叫ぶし。いや、それはいいんだよ、全然。尊敬もするしさ。うざいけど基本的にはあるべき方向だと思う。」
→世の中、だれもが公正(フェア)であることを叫び、他者に暴力的でないことを期待する。そんな中、「アート」という概念は、「モラルなんかクソくらえよ」という価値観を社会的・公的に許容する唯一のアジール(聖域=保護手段)なのかもしれない。

*「最前線なんかさ、銃弾くぐり抜けてやっとこさ前線に出たと思ったら、年寄りの有名なカメラマンばっかなの。みんな防弾チョッキなんか着てないで白いシャツ1枚で自由にのびのび撮影してるわけ。それこそ弾の方が彼らをよけてるような、なにか山奥で神仙かなにかに出会ったような妙な気分だったよ。」

*「でもこれから始めたいと思ってる奴は大変だよ。撮れる場所もだんだんなくなってきて、もうだいたい決まってきちゃってるし、最近はDVD付き雑誌が多くて、もはや雑誌の仕事でもスチールだけじゃ仕事が成立しなくて、映像も撮ってこさせられるからね。映像に向いてないカメラマンっているけど、可哀想だよね。たとえばスチールだけの現場だったら撮影中に「すげえ、すげえ」とか喋りながら盛り上がれるけどさ、映像は興奮すればするほど、自分を消さないと画に影響するからね。
→映像は撮り手の消去をともなう、たしかに。

*「ロシアでは科学や芸術やジャーナリズムやスポーツが、同じ価値をもつ上部構造として理解されるんだよね。科学者もジャーナリストも芸術家として重要視されて、逆説的だけど、窮屈な国家観に適っている限りは“表現の自由”を認められているわけでさ。芸術、科学が倫理を超越して原理主義的に信仰されるわけだから。その文脈の延長線上に宇宙開発や、UFO研究や、心霊研究や、キルリアン写真があるわけで、ボリショイ・バレエや、オリンピックの金メダリストや、臓器売買される死者がいるわけなんだよね。」
→モラルなんかクソ食らえ、で、芸術そのものを原理主義的に信仰する。こういう暴力性は一定レベルで確保されている必要がある。間違いなく。

*「ピーター・ウィトキンに関して言えば、まあやっぱ骨太な人だな、とは思うね。死体を撮るという点で言えば、ウィトキンなんかは遺族がどう思おうが、私の作品ですからって相手にしないと思うよ。」
→そうそう、この感覚。

*「やっぱりね、とんでもない死に様っていうのは、俺の想像力を超えてるんだよ。この13年間旅してきて思ったのはさ、一介のアーティストのイマジネーションなんてのは、ほんとにもう、世の中のリアリティーに比べたら米粒みたいなものだなっていうことでね。ツインタワーがあんな風に倒壊するなんてことは、建築家だって想像もつかないことなんじゃないかな。でも実際ああなったわけで。やっぱり凄いところに行けば凄いことがあるもんだと常々実感してるしね。」

*「無感動が一番怖いんだよ。いくら死体が被写体とはいっても、どうしようもなくそれに慣れてくるのは時間の問題でね。タイ、メキシコのカメラマンはその“慣れ”の感覚を利用することで仕事を続けていけるわけだけど、俺がそれをやった時点でアーティストではなくなるから。」

*「いや、死体はそれ以上でもなければ、それ以下でもない、っていう言い方をするけど、それは決してドライな言い方をしてるわけじゃなくて、逆に特殊な存在だっていうようにもいえるわけでね。過大に評価するのも失礼というか、過剰に怖れる必要もないだろうと思うし、かといってモノ扱いするのもおかしいだろうと思うし。そういう意味でいってるんだけどね。だからほんとに、俺はファインダーを通して関わるのが基本だからさ、そういう目で見ると、死体ってやっぱりいろんなことを語ってるわけだよ。だからかわいそう、とかっていう一般的な感情移入は、ほんとうに死体が表現してくることのほんの一部分で、むしろマイナーかもしれないと思う。というか、これは受け取る側の問題でもあるか。

*「タイは凄いところでね、たとえばそれが供養になるからどうぞ撮ってください、っていう態度の人だってけっこういるんだよ。」

*「死体には何の罪もないしね、撮る側にだって罪はないんだよ。報道カメラマンだって死体たくさん撮るだろう? だから俺が最近思うのはさ、死体っていうのは、それ以上でもそれ以下でもなくて、要するにブラックボックスだから、見る側の、自分を写す鏡だと思うわけ。そこに自分を見ているんだと思うんだよ。だから死体を見ていかがわしいと思う奴は、自分の心が卑しいんだと思う。
→狂おしいほど同意。

*「死体が自分を写す鏡だっていうのは、それが明日の我が身だからなんだよ。まあ手触りを感じないままに変に情報過多になっちゃってると、そういう当たり前のことを忘れちゃって自分の暗い面ばかりが肥大化しちゃうんだろうね」

*「でも俺のやってることはやっぱり芸術のつもりだし、なんていうか、それなりの敬意をもって対してほしいと思うんだよね。」

*「例えば『食人族』はイタリアで裁判をやって最高裁で“猥褻物”っていうお墨付きになった(注10)わけだけども、まあ法律的には猥褻物ということにするしかないだろうね。

── でもポルノならばともかく、死体が猥褻というのが、いまひとつピンと来ないですね。

釣崎 「いや、猥褻という意味をどうとるか、という話になるけどね。広くはまあ公序良俗を乱すようなものっていうことになるのかな。まあ昔から言われるけどね。オマンコと死体は一緒だってね。

*「現代の死体ってグロいんだよ。現代文明は人間個人が制御できないあらゆる方向のパワーに溢れてる。機械に手を挟んじゃってもがれるとか、日常生活で現代人なら誰しもがそうなる危険と共にあるし、交通事故の死体はあらゆる死に方の中でも特に惨い様相をしていることが多い。ああいう風には、ヒトの手ではなかなかできないよ。20世紀、2度の世界大戦の例を挙げるまでもなく、モータリゼーションの振興によって、世界中の都市のど真ん中でそういう惨いことが集中して起こったりしてるわけじゃない。」

*「だけどタイは、大学病院でさ、凶悪犯の死体のミイラを晒してるんだよ。それは悪いことをしたからこうなるのだ、っていう(注14)民族の宗教観が反映してるわけだけど、大学病院っていうアカデミックな場所でそれが出来るっていうのは、ものすごい強さだよ。」

#藤原新也と養老さんを交えて対談させたいですな。
あと、彼のフィルムはぜひ観てみようと思った。


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