7月 26

smoking

 朝のひとりごち。おどろいてしまった。弁護士への道を歩んでいるロースクールの友人としゃべっていたのだが、彼にとって、法律がものすごく実存的なもの(彼の生き方=価値観を賭けたもの)であることにおどろいてしまった。

 法律(とくに倫理的価値観を規定する憲法と刑法)の世界に奥深く触れるたびに、彼の自我は浸食されていくのだという。ふだんのささいな場面でも、法的に正しい行動をとっているかどうか、つねに気にするようになったという。話をきいていると、彼にとっての法律は、あたかもキリスト教の聖書に相当するものなんじゃないかという気がした。

 自分にとって法律は、ゲームの対象だ。自分にとっての法律は、自分の生き方や価値観の方向性を指し示してくれるものじゃない。法律はあくまで、自分が快適に生きるための利用対象(道具)であって、つねに合法的であることが正しいとは思わないし、すきあらば裏をかこうと考えている。つまり、自分にとって、法律は、「戦略として」向き合う対象だ。正直にいえば、「合法的」ということにあまり価値を見いだしていない。自分がいま未成年だとしたら、酒も飲むだろうし、煙草も吸うだろう。

 彼にとって、法律はちっともゲームの対象じゃなかった。彼は、人から後ろ指をさされないように生きたいのだという。人から後ろ指を指されないことを保証するものとして、法律は、彼の道しるべとなった。生き方のバックボーンとなった。彼は、ささいなことでも、法的に正しくない行動を取ってしまったら、そのあとへこむのだという!これはすごいなと思った。もちろん、彼は法の道に進もうとしているのだし、自分はそうじゃないという違いはある。

 じゃあ、自分にとっての学問は、彼にとっての法律に相当するほど実存的な存在なのか?正直、そうではないと思う。もちろん、自分が生きるための言葉を探そうとして、学問をやっている面はある。でも、学問は自分を全面的にロックオンしてはいない。

 学問の言葉を使うときは、そのルールに則って、「自分がフェアであること(他者にとって暴力的でないこと)」をつよく意識する。でも、生き方の根本までフェアでありたいとは、正直思っていない。芸術もそうだけど、魅力的なものには、時に、ある種の暴力性(他者の否定)が伴うし、それでも構わないと思っている。たぶん、女の子に対して、フェミニストが聞いたら発狂しそうな発言もずいぶんとしているし、これからもするだろう。正しく生きるよりも、強く生きたいと思うことが結構ある。キリスト教の博愛主義よりも、ニーチェ的な「力への意志」により魅力を感じる。

 自分も、彼みたいに、仕事(食っていくためにやっていること)を、自分の全実存を深く縛る存在にできたなら、人間として一皮むけるのかな。みんなはどうなんだろう。オンオフでいえば、オンが求めてくる価値観を、オフでもまっとうしようとしていますか?


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2 Responses to “Going his way?”

  1. cotory Says:

    私の場合は、学問が“生”の道しるべになるのではなく、“生”のほうが学問の道標、であるといえるかもしれません。だから自分の生き方や生きるときに考えること、使う方策は分析対象になります。分析対象は事象、あるがままの姿でよいので、学問に縛られることはありません。
    しかし分析の側面において分析者としての自分は生活世界と切り離すことができなければ、人文学を人文“科”学にもっていくことなどできますまい。

  2. Gen Says:

    cotoryさん、コメントどうもありがとうございます。

    なるほど、たしかに「”生”が学問の道標になる」面は強くあるし、そうでなければ人文科学の存在価値は無に等しいと思います。一方で人文科学は”生”を(分析対象として)必要とするし、他方で”生”にて困難な状況が生じたときには人文科学(の言葉)が資源として必要とされるはずです。また、cotoryさんのおっしゃるとおり、両者(”生”と学問)の間には隔たりがあるからこそ、両者は弁証法的(循環的)に深化しあう関係でいられるのだと思います。

    わたしが彼の話で考えていたのは、たとえばカントについてです。彼は「道徳律とは仮言命法ではなく,定言命法でなくてはならない」としましたが、では、たとえば、彼の実生活が彼の理論に反しているようなものであったならばどうでしょう。彼が定言命法にしたがって生きているように見えなかったならばどうでしょう。あるいは、彼は、「道徳律とは仮言命法ではなく,定言命法でなくてはならない」としたのだから、生活世界にてもその命法に従う形で生きる責任があったといえるのでしょうか。生活世界での彼の行動が、上記のテーゼにそぐわなかった場合、彼のテーゼの価値は毀損されてしまうのでしょうか。

    わたしたちは、パブリックな場所で影響力を発揮する者に対して、全人格的な一致を求める傾向があります。たとえば、政治家は、パブリックとは無関係な、プライベートな場所での行為によって、バッシングを受けます(ex.山崎拓の性癖)。

    そもそも、なぜわたしたちは他者に対して全人格的な一致を求めてしまうのでしょうか?もちろん、人間の認知処理の限界をうまくやりすごすために、複雑性を縮減する方略として、全人格的な一致を求める認知傾向が進化してきたのでしょう。では、全人格的な一致を求めることは、はたして妥当なのでしょうか?自分(研究者)の人格の一致を伴わない人文科学に、価値があるといえるのでしょうか?

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