8月 03

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Canon PowerShot S100 / Shibuya / Tokyo / Japan.

 7/31で終了したので遅きに失した感はあるけれど、ワタリウム美術館で行われていたChim↑Pomの「ひっくりかえる」展の感想を少しだけ残しておこう。

 「アートは社会を変えることができるか?」という問いを真正面から引き受けているかどうか。Chim↑Pomの存在意義はその1点のみにある。「美しさ」ではなく、社会に面と向かう媒体としてのアート。アートという媒体を通してしか向き合えない在り方で社会に対峙する方法を模索すること。その面と向かうメンタリティがChim↑Pomの潔さだし、Chim↑Pomはただその一点のみにおいて評価されているのだと自分は思う。

 で、当然のことながら、「ひっくりかえる展」に展示されていた、Chim↑Pomがキュレーターとしてセレクトした他のアーティストたちの作品も、”アートの社会的対峙性”その1点においてのみセレクトされていた。いわば、世界中の、”社会的対峙アート”のプロの作品群が陳列されていた。その中に鎮座しているChim↑Pomの作品は、正直言えば、レベルが低いのね。これはもう圧倒的に間違いない。Chim↑Pomの作品つまんねー。でも他のアーティストたちの作品にはいくつか見るべきものがあるよねー。幼稚に感想を記述すれば、こんな感じ。

 ちなみに、自分が唯一面白かったなーと思った作品は、もちろんChim↑Pomのものではなくて、JRというフランスのアーティストの作品。これ、作品とはいえ、有名なプレゼン動画サイト、TEDに掲載されているJRのプレゼン動画をただ大スクリーンで流しているだけ。でもこれは抜群に面白かった。「ひっくりかえる展」に行かなくても、今、なう、日本語字幕付きで無料で観ることができるので、一見の価値あり。

■Chim↑Pomを言葉で批評することは正しいのだろうか?

 上に動画を貼ったJRの作品がなぜ【私にとって】面白いかというと、「アートは社会を変えることができるか?」という問いを、幾分かは言語的に引き受けているからだ。言葉と思考を尽くして、自らのアートする行為を捉え直し、自らのアートを世界の文脈の中に位置づけようとしているからだ。[アートの社会的インパクト←アートする行為←アートする行為の言語的な捉え直し/世界観の構築]という3段階が垣間見える。ゆえに、JRのアート行為に対してあれこれ考えるとき、私は、JRの世界観を参照しながらJRのアート行為を解釈し、JRのアート行為を「くだらねー」とあまり思わないし、ちゃんと考えてるんだねーすごいよねーと思ってしまう。その場合、JRのアートの意味、つまり「言語的な世界観」の部分を結構見てしまうわけだ。

 他方、渋谷の汚い路地裏でゴミ袋を突っついてネズミを拡散させて捕獲して真っ黄色に染め上げてピカチュウ!とかやってるChim↑Pomは馬鹿げてると思ってしまう。なぜならば、Chim↑Pomからは、アートする行為の背後に存在する彼らなりの世界観が見えてこない、あるいは見えてきたとしても馬鹿なノリにしか見えない貧弱な世界観に映ってしまうからだ。[アートの社会的インパクト←アートする行為]の2段階しか見えてこないし、あるいはもっといえば、[アートの社会的インパクト←アートする行為←バカなノリ]にしか見えないのだ。深く考えてないよね、っていう。

 でも、だからこそChim↑Pomの存在意義がある。これに気づいたのが「ひっくりかえる展」だった。

 なぜ、「アートが社会を変えること」に、アートする行為の背後に、言語的な世界観、深い思考が必要なのだろうか?なぜ、アートの作品は、鑑賞者の言語的な批評に耐えなければならないのだろうか?そんなものはどうでも良い場合もあり得るのだ。何かしらの適当なノリでアートする行為を行い、その行為が結果的に「社会を変える」ことにつながるとしたら、まさしくそれこそがひとつのアートなりの社会との対峙の仕方ではないだろうか?[アートの社会的インパクト←アートする行為←適当なノリ]が成立しうるとすれば、それこそがある種の人にとっては力になるし、世界と自分を切り結ぶチャネルの多様性を確保してくれることになるのではないだろうか?

 コンビニの前にたむろしてお酒を飲んで騒ぐこと。自分も大好きだ。海辺で大声出してみんなではしゃぐこと。自分も大好きだ。そんな、大好きな、なじみのある、思わず発作的に出てしまう行為を、ただ行為それ自体の平面にて束ねて、「社会を変えること」に結びつく方向に仕向けてやること。すげぇじゃん。

 これを象徴しているのが、これまた「ひっくりかえる展」に展示されていた、次の作品(「気合い100連発」)だろう。「気合い100連発、いきまーす!」と言って、男女が円陣になって肩を組んで声を上げる。がんばるぞー、おー、から始まって、「地震で辛いけど頑張るぞー」みたいな社会的ネタから入るんだけれど、100連発だからネタが尽きはじめて、「彼女作るぞー!」「おー!」「俺も彼女欲しー!」「おー!」とか、わけわかんなくなっていくの。もっとも、音楽付きのYoutubeの動画とは違って、実際に展示されていたのは、震災で瓦礫だらけになった路地裏で、BGMもなしに、ただ叫び声がこだまする、そんな情景を収めた作品だった。円陣を組んで、気合いを入れる。ただそれだけの行為も、「社会と向き合う」ひとつの方法に他ならないのだと、切に思うよ。すごいチャネルの確保の仕方だ。これ観て涙を流す人絶対にいると思う。

 Chim↑Pomの作品を言語的に批評した論評ほどくだらないものはない。Chim↑Pomのアート行為を評価する場合、彼(女)らの(貧弱な)動機や意図や世界観に焦点を当てて彼らのアート行為を解釈することはナンセンスだ。彼(女)がすでに行為を実行してしまったということ、また、実行してしまった行為それ自体を社会に向き合うひとつの方法として臆せずアートのまな板に乗せてしまう思慮の浅さ=実行力(とでも呼ぶべきもの)、これらこそがChim↑Pomの力なのだろう、そう、感じさせる仕掛けになっているのがChim↑Pomのすごさ。考えている間、人は行為に踏み出すことができないのだから。もちろん、このブログの記事も含めて、くだらなさから逃れられない。だから、ここら辺で記事を打ち切ろう。TEDのも含めて、動画をぜひ観てください。


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