6月 20

hoping in the first day of 2007
Ricoh GX100 / Nagoya.

 『西洋音楽史―クラシックの黄昏』の書評。これは素晴らしく素晴らしい新書。「お買い得」というほかない。ベートーヴェン、マーラー、ドビュッシー…クラシック音楽について、浮島のように断片的な作曲家の知識と視聴経験しか持ちあわせていない自分みたいな人間にとっては、非常にありがたい一冊。なぜならこの本は、著名な作曲家の生い立ち、苦難の人生、作曲技法、代表的楽曲を時系列的に解説した本ではないからだ。著者の述べるとおり、「この本の主役は西洋音楽の「歴史」であって、個々の作曲家や作品ではない(p.ii)」。たとえクラシック音楽にそれほど興味がない人でも、「歴史」を知る悦びに包まれながら、おそらく本書を読み通すことができるだろう。「歴史」はみんなのもの。ロックやポップスしか聴かないあなたこそ読むべきです。

 わたしたちが大好きな「今」の音楽は、脈々とした音楽史の歴史に支えられている。歴史を知れば、「今」の音楽を相対化できるようになる。「大航海時代以来、とりわけ19世紀において、西洋芸術音楽は世界中に伝播して、いたるところで現地の伝統的な音楽を駆逐し、世界中の音楽を西洋化していった。(中略)もちろん今日では、西洋芸術音楽にかつての力はない。現代はアメリカ主導のポピュラー音楽帝国の時代である。それでもなおわれわれは、音楽には楽譜があり、楽譜とは五線譜のことで、楽器といえばピアノやヴァイオリンやフルートやサックス(せいぜいドラムやギター)、音階はドレミファ、和音はドミソやシレソと信じて疑わない。そしてこれらはすべて、西洋芸術音楽帝国が [18世紀から20世紀初頭にかけてのクラシックの時代に] 築きあげたシステムなのである(p.6)」。また、クラシック音楽もおなじく、過去の歴史に深く支えられている。「西洋芸術音楽は1000年以上の歴史をもつが、私たちが普段慣れ親しんでいるクラシックは、18世紀(バロック後期)から20世紀初頭までのたかだか200年間の音楽にすぎない。西洋音楽の歴史を川の流れにたとえるなら、クラシック音楽はせいぜいその河口付近にすぎない(p.i)」。そこで著者は、川を源流から河口にむけて一気に下る旅に出発する。そのたどり方が美しい!

 本書がしばしば――時として音楽そのものについて以上に――音楽の文化史的なバックグラウンドに言及するとすれば、それは「どんな人が、どんな気持ちで、どんな場所で、どんなふうに、その音楽を聴いていたか」を、可能な限り描写したいという気持ちからである。(中略) 私自身は、たとえ西洋音楽といえども、それはあくまで深く「場」に根ざした音楽、つまり徹頭徹尾「民族音楽」であると確信している。たとえそれが「世界最強の民族音楽」であるとしても。(p.ix)

 新書の書評なので、いくつかの興味深いトピックを紹介するにとどめておこう。

■「書かれたもの」(エクリチュール)としての音楽

 西洋芸術音楽とはなにか?著者は「芸術」をこう定義する。「芸術」としての音楽のありようとは、「楽譜として設計された音楽」であると。「紙の上で音の設計図を組み立てるという知的な性格を強く帯びているのが、芸術音楽である。どこか門外漢には容易に近づきがたいという印象を与えるのも、民謡などに比べて遙かに複雑で大規模な楽曲を作ることが可能になるのも、すべて芸術音楽のこの「書かれたもの(エクリチュール)」的性格によるものである(p.4)」。

 音楽が紙に書かれるようになったのは、800年前後のフランク王国の成立のころ。ローマにおける聖歌の歌い方をできるだけ正確にフランク王国の領土内に広めようとする政治的意図もあって、まずグレゴリオ聖歌が紙に書かれるようになる。これが「西洋芸術音楽」誕生の瞬間。

 もちろん、太古のむかしから無数の人が歌を口ずさみ、お祭りごとに音楽を奏でてきただろう。しかし、「書かれたもの」としての音楽に焦点を当てれば、話はずいぶんちがってくる。近代以前においては紙は大変高価な品であり、しかも字が読めるのは貴族や聖職者といったエリート層にかぎられていた。だから、中世において「書かれたもの」とは「聖なるもの」であり、「神の言葉」であった。したがって、中世の「書かれた音楽」は、きわめて宗教的な色彩を帯びていた。つまり、「書かれる」という特殊な性格が、芸術音楽に「神」を呼び寄せていた。中世において音楽は、決して「音」を「楽しむ」ことではなく、現象界の背後にある神の国の秩序を厳粛に音で模倣することだったわけです。

 また、録音技術が存在しなかった時代にあって、記録することが可能だったのは「書かれた音楽」だけだった。20世紀に録音メディアが発達するまで、「芸術」音楽が民衆の音楽であったことは、かつて一度もなかった。よくよく考えてみれば当たり前の話かもしれないけれども、録音技術が存在するからこそ、わたしたちは誰でも(たとえ楽譜が読めなくても)複雑に構成された音楽を聴くことができるのだ。この時代に産み落とされた幸せを、あらためて噛みしめるしかないですよね。

■作曲家の誕生、作品の誕生

 音楽が「祈り」の行為ではなく「美」の対象になり、「音」を「楽しむ」ことそれ自体を肯定できるようになったのは、15・16世紀のルネサンス時代。その背後には、十字軍の度重なる失敗による教会の権威の失墜、という理由がひそんでいた。ルネサンスの現世肯定的な性格によって、人々はようやく「いま目の前にある美しいものを純粋に楽しんでいいじゃん!」と気づきはじめた。

 ここで興味深いのは、ルネサンス時代にはじめて「作曲家」や「作品」が誕生した、というお話。かつて中世の人々にとっては、「パクリ」や「盗作」という意識などみじんも存在しなかった。当時は「ゼロからなにか曲を作る」という意識はほとんどなかった。「曲を作る」とは、グレゴリオ聖歌になにかを少し加える、つまりそれを編曲することだった。これは中世における美術の状況と似ていて、当時の絵画は宗教画と同義だったし、描かれる主題はいつも受胎告知やアダムとイヴの楽園追放などで、構図があらかじめ決められていた。

 もちろん、単なる型の再現に我慢できなくなるわんぱく小僧はいつの時代にも存在するようで、当初はグレゴリオ聖歌の単旋律に寄り添っていた対旋律が、ただ単にグレゴリオ聖歌を飾るものから、徐々に独自の主張をしはじめるようになる。これが11世紀末あたりの話。

 このように自己主張グラデーションは徐々に色濃くなっていたのだけれども、ルネサンス期についに、「これは俺様の作品だ!」とわめきたてる大量の「作曲家」と「作品」が誕生するようになる。「これは世界の他の誰ともちがう<私>が作ったものである」という自我の芽生えが、「職人」と「芸術家」を隔てていくようになったのだ。「単にその場を楽しませるだけではなく、後世にまで残る「作品」としての音楽を作るという意識が、この時代から生まれてきたのである(p.45)」。もちろん、印刷技術の発達、という要因も大きかった。印刷メディアが発明され、楽譜が印刷されることによって、個人の名(名声)は以前とは比較にならないくらい広範囲に広まるようになっていったのがこの頃。

■和音=不協和音の発見

 16世紀に「和音」が発見される。もちろんそれまでにも和音は存在していたけれども、かつては曲全体に柔らかい色調を与え調和的な世界を作り出すための「背景」だった和音が、16世紀になると、建物を支える柱としての「和音」になってくる。

 「和音」の発見は「不協和音」の発見と同義でもある。和音から外れた音がそこに混ざっていると、異物として非常に目立つ。つまり不協和に聴こえるのである。16世紀は不協和音が持つ強烈な表出効果に、人々がはじめて気づいた時代でもあった。(中略)つまり音楽は、[ルネサンス的な]「美(協和したもの)」から、「(不協和が象徴する)表現」になりはじめたのである。(p.54)

■音楽はだれのもの?

 さきほど述べたように、かつては誰もが好きな音楽を聴くことなど決してできなくて、芸術音楽は原則として王侯貴族ないし教会の音楽だった。では、芸術音楽はいかにして一般市民に開かれていったのだろう?18世紀に、わずかずつではあるが芸術音楽が市民に開放されていった。「演奏会」という、切符を買えば誰でも参加することができる音楽システムが構築されはじめたのだ。

 また、お金を出せば誰もが好きな楽譜を買って自分の家で嗜むことができるようになったのもこの時代。かつては楽譜を買えるだけで幸せであって、それを一生懸命自分の家で練習し、自分で演奏することによって音楽を楽しんでいたのだ(!)。つまり、この頃は<「演奏家=プロ」/「聴き手=アマ」>という二分法は定着しておらず、音楽Loverな一般市民たちは好んで自ら音楽を演奏していた。この「演奏したい!」という一般市民の欲望が、楽譜出版を一大産業へと押し上げた。それによって作曲家は自分の音楽を広く世に問うことができるようになったし、なによりも経済的に自立することができた。

 王侯貴族をパトロンとして、彼らの権威を飾り立てるため(「音楽による統治」に貢献するため)に雇われた作曲家=演奏家ではなく、自分の音楽に惚れて楽譜を買ってくれる人たちに向けてメッセージを発する、「音楽への愛」にもとづいたコミュニケーションが、この頃に成立した。つまり、音楽における公共空間が誕生した!「音楽の前ではすべての人が平等」「No music no life」なーんてのは、この頃からのお話なのです。ほんと現代に生まれて良かった!

■おわりに

 これだけ紹介しても、中身の1/10にも触れていない。書評ではなくただの紹介になってしまった。なによりもまだ、具体的な音楽家の名前をひとつも挙げていない。それだけ密度の濃い良書なのです。たとえば、歌詞の内容が曲調と一致しはじめるのはいつ頃なのだろう?答えは本書へ。笑

 本書は、中世~現代音楽にかけて、鮮やかに川下りを行っている。なぜ「鮮やか」だと感じたのか。それは、著者が「歴史」の本質をよく理解しているし、なによりも「歴史」を愛しているからだ。

 「○○○○年に誰々が何々をどこそこで作曲した」。これは正しい事実であるかもしれないが、意味をもった歴史記述ではまだない。それは正しいけれども、まだ無意味なのだ。「事実」に「意味」を与えるのは、結局のところ「私」の主観以外ではありえない。言い尽くされたことではあるが、「歴史を語る」とは常に私と歴史との対話である(p.133)。」

 著者は「私」を前景に出すことをいとわない。この本は”the history”ではなく、著者にとってのパーソナルな西洋音楽史、つまり”a history”だ。”a history”と割り切るからこそ、著者は専門用語の檻から解き放たれ、肩の力を抜いて自由闊達に筆を運ぶことができた。著者の”a history”を前にして読者が出会うのは、西洋音楽史そのものというよりも、やはり著者なのだ。わたしはこの本で岡田さんに出逢った。彼個人の歴史と対話して、深く打たれた。なぜなら、そこに「愛」があったから。西洋音楽の歴史に対する彼の個人的な「愛」に圧倒されたのだ。

 自分の専門領域外の本を読む醍醐味は、ここに尽きると思う。わたしは無味乾燥な、客観的で精確な世界を知りたいんじゃない。それよりも、誰かの吐息がキツくかかった、ぬるぬるとしたナマモノの世界にこの手で触れ、それにじんわり共感したい。少なくとも、「仕事」でないかぎりは。

 知らない音楽家の名前が出てきたら、Youtubeで検索すればたいていはヒットします。自分も本書を読むに当たっていくつか検索したので、もしよければこれを利用してみてください。

 「ポピュラー音楽こそ、「感動させる音楽」としての19世紀ロマン派の、20世紀以後における忠実な継承者である(p.229)」と岡田さんはいう。いまの音楽ってなんだろう?自分が大好きなあのバンドのあの名曲ってなんだろう?そう思ったとき、西洋音楽の歴史は懐の広い偉大なる参照点になってくれる。こんなにぬるぬるとした「ナマモノ」がそこにあるのだから、触れておかない手はない、ですよね。

 ただ一つ、本書を通して私が読者に伝えたいと思うのは、音楽を歴史的に聴く楽しみである。「クラシック音楽」の世界とは、「自分が好きな曲」「感動した曲」「よくわからない曲」「聞いてみたい曲」「あまり興味のない曲」などが、単にヴァイキング形式のレストランよろしくずらりと並べられている非歴史的な空間ではない。「このような音楽はどこから生まれてきたのか」、「それはいったいどんな問題を提起していたのか」、「こういう音楽を生み出した時代は、歴史の中のどの地点にあるのか」、「そこから何が生じてきたのか」。こういうことを考えることで、音楽を聴く悦びの全く新しい次元が生まれてくる、そのことを伝えたいのである(p.vii)。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)
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2 Responses to “西洋音楽史 / 岡田暁生”

  1. yuka Says:

    初めまして。つい昨日この本を読んだばかりだったので嬉しくてコメントしました。

    いわゆる「クラシック音楽」に偏らず、歴史の流れがわかりやすく書かれていて、断片的な知識をまとめるのに最適ですね。
    西洋音楽にひとつの見方を与えてくれる本だと思います。

    また、文化史的な背景をきちんと記述しているのも非常に嬉しいところです。
    様々な音楽が簡単に聞ける時代ではありますが、それがどのような場で演奏されていたのか、私たちはもっと敏感になってもいいと思います。
    例えばバロック音楽をコンサートホールで肩肘張って聴いたら眠くなるし、マーラーの交響曲のCDを近所迷惑だからと音を絞って流しては感動が薄い。こういう聴き方をしていると、クラシックよくわからない。となってしまう。
    でもそれが音楽が悪いのでも聴き手が悪いのでもなく、単に聴き方が違っているだけなのかもしれませんよね。
    現代とは全く違う文化の中から生み出されたものだから、歴史を知っているのと知らないのとでは大違いです。ぜひ多くの人に読んでもらいたいですね。

  2. Gen Says:

    yukaさん、はじめまして。

    状況とセットで音楽が存在する、ということを熱く教えてくれる本ですよね。
    クラシック入門というよりも、むしろ音楽一般の入門書、といった趣だと思います。
    多くの人に読んでもらいたいものです。

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