5月 24

R0019789
Ricoh GX100 / Yurikamome Line / Tokyo.

 「哲学とか思想とかごちゃごちゃ小難しくてよくわかんないしイライラくるし正直どうなの?と思うけど、なんとなく気になることもある」などと考えている人が真っ先に読むべき本。須原一秀著、『<現代の全体>をとらえる一番大きくて簡単な枠組み』の書評。これは超おすすめ。現代社会について考えたいとき、哲学・思想にとくに興味のない人がこれくらい押さえておけば気が楽になれる、という最低限の枠組みはこれしかないでしょう。「宮台真司とか東浩紀が現代社会を分析した文章は物語として面白いけど、でもその<ものの見方>を俺に押しつけられちゃかなわんよね!」と斜に構える自分みたいな現代人に贈る、とっておきの一冊。(「わかってる人」には物足りないかも)

 劇場的に図式を単純化することによって、須原さんは「一時間半で<現代>を把握する(p.1)」ことを可能にしてみせた。今は混迷の時代・閉塞の時代だというのは真っ赤なウソで、思想的にも倫理的にもすでに答えは出てしまっているのだと彼はいう。「大枠での答えはすでに出てしまっているので、そのことを踏まえて、個別の問題に個別的に対処すれば良いし、事実、事態はそのようにしてかなりうまく進行中である(p3)」。さて、ではその「大枠での答え」とはいったいどういうものなのか?(なお、著者の須原さんはもともと分析哲学を専門にしていた哲学者で、一昨年自殺してしまった。彼自身の人生について考えるとスゴイことになるが、それは彼の書いた別の本、『自死という生き方』を書評するときに譲りたい。須原さんのはてなダイアリーも墓標として残っている…)


■「哲学」は死んだが、「思想」は生きている

 いつの時代も、「社会」や「時代」を鮮やかに語ってみせるのは「哲学者」や「思想家」たちだった。でも、「哲学」と「思想」はちがうと須原さんはいう。それらは次のように定義される。

・思想=ものの見方・感じ方・考え方+生き方
(名付けることはできても、かならずしも言葉で述べられない)
・哲学=「ものの見方・感じ方・考え方+生き方」を学問にしたもの
(「思想」を言葉で述べ、そしてそれを学問的に整備したもの)

 たとえば「報われなくても努力したことに意味があるんだよ!」と言うとき、あなたは(結果主義ではなく)心情主義という「思想」に染まっている。このブログだと、以前書いた岡本太郎の人生論は、心情主義の一例です。また、たとえば「学校教育の場で<神が地球を創造した>と子供たちに教えるのは良くない。やっぱ社会は第一に科学的な知識(進化論)を伝えていくべきだよ!」と感じるとき、あなたは科学主義という「思想」(ものの見方・感じ方・考え方)に染まっている。「思想」は、小難しいものではまったくなく、素朴な生活感覚だ。「思想」は感覚だから、言葉で表現しきれないことも多い。 1)「ものの見方・感じ方・考え方」のすべてを言葉で言い当てるのは不可能。どんな人間であれ、「思想」をすでに身につけてしまっている。

 この「思想」を「哲学」にしようとすると、話はとたんにむずかしくなる。じゃあ科学主義ってなに?そもそも「科学」と「科学でないもの」のちがいってなに?ってなことをぐるぐると考えはじめると、たとえば科学哲学のおはなしになる。でも、「思想」を「哲学」にしようとする試みは、いまも失敗し続けている 。 2) たとえ言葉では表現しきれない内容に関わるとしても、その表現しきれない理由とその範囲を言葉で表現するのが「哲学」。しかし、たとえば「心」という単語ひとつをとってみても、満足のいく定義は得られていない。また科学主義に関していえば、トマス・クーンの「パラダイム」という概念もボコボコに粉砕されてしまった。ちなみに学問の世界では「操作的定義」という手法が好まれる。これは、【厳密な「哲学」によってある事象を絶対的に正しく捉えるのは困難だから、暫定的に「Xという単語は○○を指す」とお互い合意しておきましょうね!】という研究者間の取り決めのこと。今回の記事の主題ではないので詳細は省略。
だから「哲学」は死んだ。「哲学は死んだ」というのは、言い換えれば、絶対的真理(絶対的に正しいものの見方・感じ方・考え方)はもはや見つからないということです。わたしたちはケース・バイ・ケースで、場当たり的にその都度答えを探していくしかない。「多種多様な意見の存在と、暫定的な解決策しかない状況を、がまん強く耐え抜く心を養成」するしかない(p.16)。まぁ、聞き慣れた話でしょう。

■「思想」を5×2通りに整理してみせるよ!

 「哲学」は発展したり変貌したりするけれども、「思想」にはただ流行りすたりがあるだけだ、と須原さんはいう。これは本当にそうで、たとえばギリシャ時代に書かれた本なんかを読むと、「なんだ今とまったく変わんねーな」と驚いてしまう。人間のものの見方・感じ方・考え方は、人間がヒトという種であるかぎり、昔からほとんど変化していない。「哲学」は死んだが、だれもが日常的に抱く「思想」は脈々と生きつづけている。そこで須原さんは、生活感覚としての「思想」を5×2通りに整理してみせるわけです。誰かがなにかを議論しているとき、だいたいはこれら対立軸の一変種を語っている。スッキリしますよ。

1.個人主義 vs 全体主義
2.科学主義 vs 神秘主義
3.結果主義 vs 心情主義
4.真実主義 vs ソフトウェアー主義
5.肯定主義 vs 否定主義

 1.個人主義とは、やっぱ自分が大事だよね!という考え方。全体主義とは、たとえば家族・会社・国家など、自分より大事なものが存在する!という考え方。
 2.科学主義とは、やっぱ最後は科学が信用できる!という考え方。神秘主義とは、この世には科学で割り切れないものがある!という考え方。
 3.結果主義とは、なんだかんだいっても結局は結果がすべてだよね!という考え方。たとえばプラグマティズム(役に立つものは正しい!)や功利主義(最大多数の最大幸福)もここに含まれる。心情主義とは、結果よりも気持ちが大事、筋は通しておかないと!などという考え方。
 4.真実主義とは、この世には絶対的真理がある!とする考え方。たとえばイスラム原理主義者はこれに当てはまるし、わたしたちが「人としてあなたの行動はおかしいよ!」などと感じるとき、「人」という言葉の裏側に真実主義が隠れている。ソフトウェアー主義とは、わたしたちが「目と耳と脳などを関連づけて世界を認識するためのシステム、すなわちソフトウェアーにはいろいろなものがあるという考え方(p.27)」。たとえば、考え方は人それぞれだよね!という相対主義、何もかも疑わしい!という懐疑主義、何であれ本当のことはわからない!という不可知主義など。

■肯定主義は受け入れよう

 そして5. 肯定主義、これが須原さんが一番プッシュしたい考え方。「肯定主義とは、人間には不純な部分も純粋な部分も、理屈に合う部分も合わない部分も、優しい部分も残忍な部分もあって、そしてそれもいろいろな種類があって、そのどれも否定できないということを認める見方・感じ方・考え方・生き方」、つまり「人間の両面性と多様性、さらには非合理性をまるごと認めてそれらを解放する立場です」(p.31)。簡単にいえば、「留保のない生の肯定を」「無原則の寛容を」ということ。

 たとえば、人間は一生涯利己的にはなれないし、一生涯利他的にもなれない。あるときには自分の儲けがなによりも大事だし、自分よりも他者を救うことが大事だと感じるときもある。マザー・テレサを尊敬する気持ちも自然だし、サイバーエージェントの藤田社長を「金持ちでいいなぁ」と思う気持ちも自然。手術を受けるときには科学が大事だし、でも元気になって家に帰ってくれば仏壇に手を合わせてお参りしないとバチが当たりそうだと感じたりもする。

 上に列挙した4つの「思想」の対立軸において、「俺は完全に○○主義だ!」という人は、否定主義者だ。人間の一面しか認めない人が否定主義者。だから、利己心を認めないキリスト教が否定主義であるのと同様に、利他心を認めない快楽主義もまた否定主義なわけです。ニーチェも否定主義者(!)。「お金より大事なものがある」という人も否定主義者。人間、お金が一番大事なときもあれば、そうでないときもあるわけですから。ことさら拝金主義を否定する必要もない。「病気にかかり苦労して生きる意味がはじめてわかった」というのも否定主義。楽しく生きて見えてくる人生の意味と、苦労して見つかる人生の意味に、優劣などないのだから。 3)自分の価値観と似ている。しかし、もちろん自分も「利己心がすべて」と言い切ってしまった時点で、否定主義者になってしまう。その罠にはまりがちだけれども。

 須原さんは肯定主義を肯定する。これはあくまで彼の価値判断だ。けれども、現代人の大多数は、須原さんと同様に肯定主義を肯定するのではないだろうか。たとえば、「金儲けは卑しい」とみなが感じている社会(全面的心情主義)、あるいは逆に「金儲けがすべてだ」と皆が感じている社会(全面的結果主義)に住みたいだろうか?どちらもイヤだ。ひとつの「絶対的理想」を掲げる社会など、悪夢でしかない。そしてもし肯定主義を肯定するならば、「対立する正反対の思想は、どちらもそれぞれの適所で生きており、どちらも全面的な正統性を主張することができない」(p.182)ことになる。

■「西洋哲学」は民主主義と肯定主義の敵

 もし人間の両面性・多様性・可塑性・非合理性を認める肯定主義を受け入れるならば、上述したような諸思想の対立は、そのまま堪え忍ぶべき事柄であって、学問的手続きで一気に答えを探すことなどできない。また、「国家哲学」なんてものはあってはならない。(「美しさ」を絶対的理想とした国家、ロールズの正義論を絶対的理想とした国家、カントの倫理観を絶対的理想とした国家なんて、想像しただけでゾッとしてしまう)。それは社会主義の悪夢だ。とすれば、諸思想の対立を調停するには、民主主義というまどろっこしい手続きを経るしかない。

■民主主義は消極的な「歯止め装置」で「理想」ではない

 肯定主義を認めるということは、大衆社会を受け入れるということだ。肯定主義のマイナス面、つまり多少の「災害・犯罪・退廃」を許容してでも、大衆社会の両面性・多様性・可塑性・非合理性を解放するということだ。肯定主義を認める社会は若干「不潔」な社会でならなければならない。また、肯定主義を認め人間の両面性を受け入れるならば、「民主主義的に決めた事柄は正しい」ということにはならない(人間は間違いを犯す)。「民主主義」「自由」「平等」「国民主権」は、達成すべき理想ではなく、最低限確保すべき安全装置にすぎないし、今後もそうあるべきだ。民主主義は、不自由と不平等と独裁によって、人間の肯定主義的活動が封じられるのを防ぐための安全装置であると同時に、肯定主義を認めることによってもたらされる人間のマイナス面が統治システムにおいて暴走しにくくするためのネガティブな制御装置だ 。わかりやすくいえば、民主主義は、消極的だからこそ素晴らしい「意味のある不安定な制度(p.131)」なのだ。

■民主主義+資本主義+科学の3本セットが、人間の肯定主義を解放してくれる

 肯定主義を実現するには、民主主義に加えて資本主義を認めることも必要だ。人間のさまざまな矛盾する欲求を市場原理の中で中和・無害化して、自分にも他人にもあまり迷惑にならない形で、時には非常に効率的に、充足・解放していくことができる仕組みになっているのが資本主義社会だからだ。神父さんがこっそり風俗に行って性欲を満たすこともできるのだ!(人道主義者・オタク・科学者・ホスト・風俗嬢・サラリーマン・ニート・宗教指導者が矛盾した欲望を同時に実現し、それなりにうまく共存できる社会経済体制がほかにあるだろうか?)。市場経済は「腕力・身分・権威・教養・容姿」から人間を解放してくれる。「ある意味で、お金はキレイな浄化装置だといえる(p.134)」のだ。また、科学を認めることも必要だ。科学がどれだけ人間の欲望を解放してくれていることだろう? 4)長くなるので科学については省略。詳細は本書を読んでください。

 つまり現代大衆社会とは、「民主主義+資本主義的市場経済+科学」をひとつのるつぼに放り込んで相互作用させたものであり、よくわからない・コントロールしにくいブラックボックスであり、だからこそ人間の両面性・可塑性・矛盾を解放してくれる「フロンティア」なのだ。「資本主義的・民主主義的・科学主義的・肯定主義的大衆社会は、最大最深の荒野である(p.146)」。

 「心ある人々」は綺麗事を並べて現代社会の荒廃を批判する。しかし、彼らは否定主義者であり、結局「半分の心しか持たない人たち」ということになる。基本的には現代は、ほとんど理想的に事態は進行していると見るべきである。だからといって、事態が理想状態に向かっているという保証はない。「現代大衆社会」は予測の付かないブラックボックスであり、未踏のフロンティアだからである。そこで、事態をコントロールするための工夫は常時必要である。ただしその際には、一般的方法も普遍的原則もないし、あってはならない。ケース・バイ・ケースの「場当たり的手続き」でやっていくしかない。(p.184)

■書評

 多くの人が薄々気づいている感覚に、明快な言葉を授けてくれる一冊だ。「普通」に生きる人が、最低限、これだけ押さえておけば間違いはない。今回は主旨のうわべを抽出してみたけれど、歴史的記述も含めて味わい深いので、ぜひとも一度手にとってみてほしいなと願う。

 本書に対する最大の疑問は、「じゃあ結局、民主主義を経ればなんでもアリってことなの?」というものだろう。須原さんは「なんでもありということにはならない」という。なぜなら、彼は「共同体の内側と、日常的・主体的・私的領域では、「真理」も「正義」も「原則」も個別的に認めます(p.169)」という立場を取っているからだ。たとえば、会社で好き勝手に振る舞えば、クビになっても文句はいえない。会社員は、ある共同体(会社)に所属したいと願うかぎりにおいて、髪を染めるのを我慢するなど、会社のルールに従う(自分の中の矛盾を押さえ込む)わけだ。

 また、彼は「共同体の外側でも、普遍的・一般的・公的領域で、「不正義」と「非真理」の個別事例を確認できる(p.169)」という立場を取っている。これは自分なりに解釈すれば、ホワイトリスト的に社会を語ることはできないけれど、ブラックリスト的にダメなものは潰していけるという立場だ。積極的に理想社会のビジョンを語ることはできないけれど、消極的に不正義を潰していけるという立場だ。たとえば、「人間の命は地球より重い」という考え方を社会の理想に据えるとうさんくさくなってしまうけれど、「無抵抗の少女をレイプ殺人することは絶対に許せない」という価値観は誰もが共有することができるので、法制度を整備することが許される。

 さて。だとするならば、皮肉にも、「積極的に理想や正義を語る者たち」の重要性がますます高まっているといえるのではないだろうか。人々が「消極的に不正義を潰していく」際に、「ここに不正義があるよ!見て見て!気づいて!」と叫ぶ者たちの必要性が高まっているのではないだろうか。たとえばアイヌ民族は、ごく少数のマイノリティなので、純粋に民主主義的手続きを経るだけでは、いまだに差別されつづけていただろう 5)アイヌ民族に対する差別は過去の問題か現在進行形の問題か、という話は本題ではないのでおいておく。。彼らの声を聴きとった理想主義者たちの運動の甲斐があって、多くの人々が彼らを認知するようになったのだ。

 だから、いわゆる筋金入りの「左翼」をバカにできない。資本主義・市場経済を批判する者たちもバカにできない。彼らの価値観を押しつけられちゃかなわないけれど、でも、やっぱり積極的な理想に燃えた人々はそれなりに必要なのだ。「俺があなたの意見を受け入れる義務はないけれど、でもちょっと自分の中の利他心が疼いたよ。うん、考え直してみる」といった感覚だ。人間の醜い部分も認める肯定主義、民主主義、そして雑多な欲望を解放する資本主義的市場経済を全面的に受け入れるからこそ、同時に、資本主義的市場経済ないし無自覚な肯定主義を鋭く批判する者たちが必要なのだ。唯一の「答え」はないのだから、民主主義という「歯止め」の内部で、不安定ながらも、ときに間違いを犯しながらも、1個1個みなで言葉を戦わせ、心を共振させていこう。日々感じたことを、荒削りで感情的な言葉のままでも良いから、率直に発信していこう。

 最後に。この本が私たちに語りかける一番強いメッセージは、「甘えるな」、の一言に尽きると思う。原理・原則に甘えるな、その都度個別具体的に思考する努力を放棄するな、ということだ。これは自分に一番欠けている態度なので、本書を読み、陰鬱な気分になった。そもそも人間が理論(哲学)を好むのは、世界の現象を①言語化し、②概念化し、③理論・法則化することによって、その現象の唯一性(uniqueness)が失われ、他者性が消失し、<私>の支配下に置かれることになるからだ。わけのわからないピカソの『ゲルニカ』という絵画の前に立ったとき、よくわからないままだとわたしは不安だ。しかし誰かが「これは反戦がテーマなんですよ」と教えてくれれば、わたしは心底ほっとする。『ゲルニカ』という絵画の唯一性を「反戦」という原理・原則に回収することができ、それ以上『ゲルニカ』の「わからなさ」について考える面倒くささがなくなるからだ。「場当たり的手続き」ほど苦しいものはない。

 地道にやっていくしかない。この本はあくまでスタートラインを示したまでだ。極めて真っ当で、厳しいスタートラインではあるけれど。そしていま気がついた。これこそが「フロンティア」なのだと。

“現代の全体”をとらえる一番大きくて簡単な枠組―体は自覚なき肯定主義の時代に突入した
“現代の全体”をとらえる一番大きくて簡単な枠組―体は自覚なき肯定主義の時代に突入した 須原 一秀

新評論 2005-02
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1. 「ものの見方・感じ方・考え方」のすべてを言葉で言い当てるのは不可能。
2. たとえ言葉では表現しきれない内容に関わるとしても、その表現しきれない理由とその範囲を言葉で表現するのが「哲学」。しかし、たとえば「心」という単語ひとつをとってみても、満足のいく定義は得られていない。また科学主義に関していえば、トマス・クーンの「パラダイム」という概念もボコボコに粉砕されてしまった。ちなみに学問の世界では「操作的定義」という手法が好まれる。これは、【厳密な「哲学」によってある事象を絶対的に正しく捉えるのは困難だから、暫定的に「Xという単語は○○を指す」とお互い合意しておきましょうね!】という研究者間の取り決めのこと。今回の記事の主題ではないので詳細は省略。
3. 自分の価値観と似ている。しかし、もちろん自分も「利己心がすべて」と言い切ってしまった時点で、否定主義者になってしまう。その罠にはまりがちだけれども。
4. 長くなるので科学については省略。詳細は本書を読んでください。
5. アイヌ民族に対する差別は過去の問題か現在進行形の問題か、という話は本題ではないのでおいておく。

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One Response to “<現代の全体>をとらえる一番大きくて簡単な枠組み / 須原一秀”

  1. 一般法則論 Says:

     だから「哲学」は死んだ。「哲学は死んだ」というのは、言い換えれば、絶対的真理(絶対的に正しいものの見方・感じ方・考え方)はもはや見つからないということです。わたしたちはケース・バイ・ケースで、場当たり的にその都度答えを探していくしかない。「多種多様な意見の存在と、暫定的な解決策しかない状況を、がまん強く耐え抜く心を養成」するしかない(p.16)。まぁ、聞き慣れた話でしょう。

     確かに、「まぁ、聞き慣れた話」。
     しかし、別の哲学的な考え方、科学の定義がありえます。
     結果は、聞き慣れた話に似ても・・・。

     http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/
     一般法則論

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