2月 12

christmas2007#2
Ricoh GX100 / Shibuya / Tokyo.

 道徳の認知科学。スティーブン・ピンカーがNew York Timesに寄稿していた文章、The Moral Instinct(道徳という本能)がでらおもしろすだったので、ご紹介。現時点でわかっている、道徳の進化心理学的・脳科学的基盤をわかりやすく噛み砕いて論じた記事です。長いので、2回程度に分けて。翻訳ではなく面白いところをかいつまんで意訳するので、興味ある人は原文を当たってくださいな。

■道徳というスイッチ

 まず、認知科学で「道徳」の問題をなぜ扱うと面白いのかといえば、それは科学の枠内で「生きる意味」に接近できるからだとピンカーは述べる。道徳という心理的状態は、スイッチによってオン・オフと切り替えられるようなものであり、スイッチがオンになったとき、独特な心的状態がわたしたちの思考を奪い取る。「好みにあわない」「古くさい」「軽率だ」と感じるときの心的状態と、「非道徳的だ」と感じるときの心的状態は、まったく異なっている。

 第1に、道徳的なもの(たとえば他人を殺してはいけない)は、普遍的な要請だと感じられる特徴を持っている。「皆がわかってくれるはずだ」と人々は思いこんでしまう。「オレは人殺しが嫌いだよ、でも好きな人もいるかもしれない」とはならない。第2に、道徳を犯した者は罰せられるべきだ、と人々は感じてしまう。バートランド・ラッセルの言葉を引けば、「良心に基づいて残酷な刑罰を与えることはモラリストにとっての喜びだ――ゆえに地獄という概念が発明された」ということになる。

 道徳のスイッチが入ると、正義感や怒りがこみあげてきて、他人にある状況を喧伝したくなる(自分一人で抱え込むのでは我慢できなくなる)。心理学者のPaul Rozinは面白い研究を行った。自らの健康のためにベジタリアンになった者と、生物を殺すのは許せないといった倫理的な観点からベジタリアンになった者とを、比較したのだ。倫理的ベジタリアンは、スープにたった一切れ牛肉が入っているだけでも嫌がるし、他の人々もベジタリアンになるべきだと考える傾向が強かった。

 つまり、同じ結果を志向していても、プラグマティックな観点からある行為や思想を好むのと、倫理的な観点からある行為や思想を好むのは、心理メカニズム的にもまったく異なっている。Paul Rozinは喫煙問題を研究して、こう述べた。「喫煙問題は、純粋に体に悪いといったプラグマティックな観点を超えて、最近モラル化されている」と。吸うこと自体が汚らわしいとされる時代になってきた。道徳的思考モードで扱われるから、タバコ会社は執拗に(懲罰を受けるべきだと)攻撃されているし、喫煙者にとっては非喫煙者の言動の一部が「禁煙ファシズム」のように映ってしまう。このように、かつてはプラクティカルな問題だと扱われていた事柄の多くが、現在、道徳問題として扱われている。アメリカにおける食べ物と肥満の問題だって同様だ。また同時に、多くの行動は、モラルの問題からライフスタイルの問題へと変換されてきた。たとえば、離婚、マリファナ、同性愛など。離婚や同性愛と聞くだけでイライラして拒否反応を示す人は減ってきたが、これは喫煙問題に対する心理の裏返しなのだ。

■論理的思考と正当化

 道徳スイッチが入った状態での思考は、かならずしも合理的ではない。自分の道徳心を正当化するような(あとづけの)論理的思考がしばしば確認される。たとえば、哲学者であるPhilippa FootとJudith Jarvis Thomsonが提出した、トロッコ電車問題と呼ばれる興味深い思考実験を紹介しよう。暴走トロッコ電車が人々に突入しそうな状況をあなたは眺めている。片方には5人、もう片方には1人いるとする。スイッチを切り替えなければ、トロッコ電車は5人いる方に突っ込んで、5人が死傷してしまう。あなたはスイッチを切り替えて、一人の方へと突入させますか?

 大多数の人は「そうする」と答えるそうだ。では、もうひとつ、似た状況を想定してみよう。あなたは橋の上からトロッコ電車が5人に突入しそうな状況を眺めている。暴走トロッコ電車を止める唯一の方法は、重い物体をレールに投げ込むことだけであるとする。そして身近にある唯一の重い物体は、あなたの隣に立っているデブなおっさんだけであるとする。さて、あなたは、となりの太ったおじさんをレールに投げ込みますか?

 両方の例はともに「多数の命を守るために一人の命を犠牲にする状況」をあらわしており、ジレンマ的には等価な状況だ。しかし、多くの人々は、スイッチを切り替えることはできても人を線路に投げ込むことはできないと答える。この傾向は、文化や宗教や年齢に関係なく、世界中で実験的に確認された。その他にもたとえば、死にそうな患者の臓器を(死ぬ前に)取り出して5人の命を救うのは許されていないことや、救命ボートから一人を海へ投げ捨てることに人々が感じる抵抗感も、似たような例といえる。

 認知神経科学者・哲学者であるJoshua Greeneは、こう示唆している。人々は無実な人間を乱暴に扱うことに強い拒否感を示す進化的傾向を持っており、この本能は功利的(合理的)な計算より圧倒的なものであると。

 これだけだと「ありそうな話」で終わってしまうが、Joshua Greeneのチームは脳科学的な研究も行っている。上記のジレンマ問題を解かせているときに、感情的・道徳的な部位と、合理的的・分析的な部位が、脳の内部で衝突している様が確認されたのだ。

 1.感情的・道徳的判断を司る部位、2.論理的・合理的判断を司る部位、3.両者の衝突を調停する部位の三つが脳内に存在しており、(素手でデブなおっさんを突き落とすのではなく)トロッコのスイッチを切り替える問題を解かされているときには、1の部位が、あまり活性化されなかったそうだ。また、別の研究によれば、1の部位を(事故などにより)損傷した患者は、非常に功利主義者的でクールな判断を行うそうだ。(参照:以前書いた記事

■道徳は普遍的なの?

 チョムスキーの普遍文法的な意味において、わたしたちは普遍道徳とでもいうべきメカニズムを備えているのかもしれない。パラメターは時代や文化ごとに異なっているが、道徳心理的メカニズム(テンプレート)は同じなのだ、と。

 道徳的なものごとに動揺する現象は、幼少期にも確認されている。2~4歳くらいの幼児は、自発的におもちゃを他人にあげようとするし、悲しんでいる人を慰めようとする。そして、心理学者のElliot TurielとJudith Smetanaによれば、未就学児は、社会的慣習と道徳的原則のちがいをすでに感じ取っているという。4歳の子供は「学校にパジャマを着て行ってはダメだ」(社会的慣習)、「理由もないのに女の子を殴ってはダメだ」(道徳的原則)という。しかし、「もし先生がOKしたならばそれらの行為は認められますか?」と聞かれたとき、多くの子供たちは、「パジャマを学校に着ていくのはOKだけど、女の子を殴るのはダメだ」と答えるそうだ。つまり、社会的に合意されたルールと、道徳それ自体の区別を、幼い子供もはっきり行っているということ。

 道徳性を担う遺伝子を同定した者はまだ存在していないが、たとえば一卵性双生児の研究を通じて、状況証拠は揃ってきている。

 このように、道徳的な感覚は、文化的・社会的に構築されるだけではなく、わたしたちの進化的な背景・遺伝的なメカニズムに深く根ざしているといえる。道徳は、純粋に文化によって培われ言葉や思想を介して立ち上がるものではないのだ。また、自らの道徳心に身を任せ正義感に酔って思考・判断すると、時に極めて非合理的な状況を招きかねないことにも注意したい。(だから自分は「倫理」「常識」を持ち出す奴が大嫌いだ)

 では、進化心理学的な道徳メカニズムをより掘り下げて理論化すると、それは一体どのようなものであるといえるのだろうか?(次回へ続く)


1 Star2 Stars3 Stars4 Stars5 Stars (1 votes, average: 5.00 out of 5)
Loading...Loading...
11,510 views | add to hatena hatena.comment 15 users add to del.icio.us 0 user add to livedoor.clip 0 user |  http://plaisir.genxx.com/wp-trackback.php?p=186



Amazon Related Search

Leave a Reply