1月 20

Vietnam Ho Chi Minh#6
Nikon FM3A / Ho Chi Minh / Vietnam.

 上の写真はベトナムを旅しているときに撮ったものだけれども、心底素敵な光景だった。記念写真を撮るために、思い切り着飾って、精一杯の撮影場所を選択して、微かに緊張しながら笑みをたたえ、二人が共に刻む現在の痕跡を粒子として定着させようとする。写真に密度が充満する瞬間だ。さて。「愛」とは何だろうか。「愛する」とはいかなる行為だろうか。今日は1956年に出版されたエーリッヒ・フロム(Erich Fromm)の名著、“The Art of Loving”(直訳すれば『愛の技術』)を少しだけ書評してみたい。「愛」という概念を通して、人生そのもの、いかに生きるべきかを論じた本。人間ならば、誰であれ、かならず一度は目を通しておくべき書物だと感じた。

 いちばんベタに考えれば、恋とは求めること、愛とは与えること、といえるだろう。そうだ。そのとおりだ。たしかに愛とは与えることだ。すんなりと腑に落ちる。でもさ、与えるって、いったいなにを?どうやって?


■愛は技術である

 当たり前だけれども、「愛」に対応する実体など存在しない。「愛」はあくまで人間が作り出した恣意的な概念であり、「愛」を科学的・因果的に説明しようとしても無駄だ(問いの立て方が間違っている)。だから、「愛するということ」を考えるとき、わたしたちは「愛する行為はいかなるものであるべきか」という倫理的な問いを行わざるをえない。それはすなわち、「いかに生きるべきか」を問うことでもある。説明ではなく、あくまで解釈の問題だということを、まず確認しておこう(参照)。

 エーリッヒ・フロムはこう断言する。愛は「技術」である。それを得るためには知識と努力が必要だ。たとえば、翻訳家になりたいならば、一生懸命リスニングなどを練習して努力するのに、なぜ「愛」に関しては、人は能動的に努力しようとしないのか。人びとの大半は、愛は自分の中で自然とわき起こってくる感情だと信じている。甘っちょろい。愛は知識と努力を必要とする技術なんだ。経済的なこと・出世のための努力は惜しまないのに、愛に関しては真剣に向き合おうとしない。「ありのまま」幻想に甘えている。なんと心が貧しいことか。

 では、なぜ人々は「愛は技術だ」と思わないのか。そこには次のような誤解がある。第1に、愛の問題が、愛する能力の問題ではなく、どうすれば愛されるかという問題として捉えられてしまっている。たとえば、「愛されヘア」「モテ子になりたい」「俺、非モテのキモオタだから」みたく。第2に、愛は能力ではなく、対象の問題だと考えられてしまっている。愛することは簡単だが、愛するにふわさしい相手を見つけていないだけなんだ、と。たとえば、「なかなかいい人見つからないんだよねぇ~白馬の王子様いないかな」みたく。第3に、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛しているという持続的な状態とが、混同されてしまっている。これは鋭い論点だ。情熱的に「好きになる」のは簡単だ。でも、二人の関係を持続させようとするならば、まっとうな努力が求められる。翻訳家ならば、つねに最新の時事用語を勉強し続けるだろう。でも、こと愛に関しては、人々は持続のための努力を放棄して、「ありのまま」幻想にしがみついてしまう。

 交際には技術がいる。しかし、人を愛すること自体が技術なのだと考えている人はほとんどいない。愛の技術を習得するには、(1)理論に精通すること、(2)修練に励むこと、(3)技術を習得することが自分にとっての究極の関心事になることが必要だ。ゆえに、フロムは本書で愛の理論を語っていくことになる。

■愛とはなにか

 膨大な射程を秘めた本書の理論をすべて紹介することなどとてもできないので、冒頭の問いに話を絞ろう。愛とは与えること。与えるって、いったいなにを?どうやって?

 愛とは、自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているものを与えることだ。自分の生命力を与えることによって、人は他人を豊かにする。もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びだ。愛とは自分を犠牲にして誰かに尽くすことではない。与えることは、自分のもてる生命力のもっとも高度な表現なのだ。だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分にはね返ってくる。与えるということは、他人をも与える者にするということであり、たがいに相手の中に芽生えさせたものから得る喜びを分かちあうのである。愛とは(他者の)愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものである。

 ただしこれは、相手と生産的に関わりあったときにしか起きない。生産的な愛で関わりあうとき、人は孤独感を克服するが、いぜんとして自分のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるというパラドックスがおきる。生産的な愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることであり、愛の本質は、「なにかを育てる」ことにある。他者を支配せず育てるために、尊敬の念が必要になる。そして他者を尊敬するには、その人のことを知ろうとする必要がある。他者と生産的に融合したとき、私はあなたを知り、私自身を知り、すべての人間を知る。

 生産的に愛するには、信じること(信念)が必要だ。自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができると「信じる」こと。そして、たとえば母親が子供の成長を信じるように、他人の可能性を「信じる」こと。その信念があるかないかが「洗脳」と「教育」のちがいだ。洗脳を行う者は、他人の生命力と可能性を信じていない。一方、教育とは、他者が可能性を実現してゆくのを助けることだ。そして信念をもつには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望さえも受け入れる覚悟である。

 「愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない」。

■書評

 以上が、エーリッヒ・フロムが描く愛の見取り図だ。ポイントは、1.愛するためには自分が生命力をみなぎらせていないとダメ(自律した生産的な人間だけが他者を愛する=他者のなかに愛を芽生えさせることができるのであり、依存や支配はダメ)、2.愛する者は他者の生命が成長する可能性を信じその可能性を慈しみながら愛さなければならない、3.与えることは自分のもてる生命力のもっとも高度な表現なのだ、4.そしてこのように愛するためには技術とそれを身につけるための修練が必要だ、といったところか。

 愛について語るとき、いちばん難しいのは、自分と他者が異なる存在だということを維持しながら、いかに一体化させるかだ。二人が一人になり、しかも二人でありつづけるというパラドックスが愛の本質でありブラックホールであり消失点だ。そこにすべてが飲み込まれ、そこからすべてが生まれてくる。

 自分と他者が全く異質な存在であれば、一体化は生じない。自分の存在を消去して他者に尽くせば、一体化できるかもしれないが、他者に依存してしまうことになる。自分の存在を持ち上げて他者の存在を消去すれば、一体化できるかもしれないが、他者を支配してしまうことになる。エーリッヒ・フロムは、このパラドックスを見事に解消している。「与えるということは、他人をも与える者にするということであり、たがいに相手の中に芽生えさせたものから得る喜びを分かちあうのである」。

 これは、すぐれて私たちの「目」を鍛えてくれる「愛」の解釈学だ。モテ/非モテという日常の発想、肉と性の交換という進化論やゲーム理論などの科学からは決して見えてこない、「愛」の姿が炙り出される。眼鏡ではなく目を鍛えるとは、こういうことを指すのだろう。科学的態度、経済学的態度によって覆い隠されてしまった、世界の親密な肌触りを可視化してくれる思想。自分はもう少し利己主義を基盤にした「愛」を構想しているけれど、フロムの本には大いに考えさせられるものがあった。

 わたしたちは他者をまるごと理解できない(理解できると考えているならそれは傲慢だ)。わたしも他者にまるごと理解などしてもらえない(理解してもらえると考えているならそれは甘えだ)。でも、お互いに存在を承認しあうことはできる。言語的なものであれ、非言語的なものであれ、相手に自分の喜びや悲しみを伝えることはできる。もちろん正確には伝わらないのだけれど、自分を愛し、自分の生命を燃やし、その炎を他者に引火させ、他者の生命を燃え上がらせることはできる。理解し合えない。でも、相手の可能性をどこまでも信じ抜くことはできる。もちろん、見返りを求めない、自分自身の生命力の表現として。

 愛の本質は、「なにかを育てる」ことにある、とフロムはいう。彼は1950年代の資本主義社会に絶望しながらこの本を書いた。書評では触れていない、「愛」を歪めてしまう近代社会構造についてのフロムの分析は、本当に切実だ。だけれども、彼の言葉はまったく希望を失っていない。「愛」=「読者の可能性を信じること」に満ちている。彼は社会を徹底的に愛している。社会の可能性を信じ抜いている。誰よりも深く。彼は、「愛」を語るこの書物を記すことによって、なによりも「愛」を実演してみせたのである。その「愛」が、今どこかで、きっと、次なる「愛」の連鎖を生み続けていることだろう。

愛するということ
愛するということ
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鈴木 晶 Erich Fromm エーリッヒ・フロム
紀伊國屋書店 (1991/03)
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5 愛には「修練」が効くと説く本。良書である。
5 The art of loving
5 これからの人生の指標となります


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2 Responses to “愛するということ / エーリッヒ・フロム”

  1. kazoo Says:

    まったく共感。すごくタイムリーにこの記事に合えました。
    同じ夕焼けを見て同じように「きれいだね」といったとしても、相手が同じものを見ているとは限らないように、他人を丸ごと理解することは不可能。
    「生産的な愛」って本当に修練必要。
    信念、勇気、知ろうとする努力。
    言うは易しで実際に本当に難しいと感じることもありますが、
    自分が常に感動と幸せにあふれる人間でいる努力は自信がるけど、傷を恐れない勇気を持つ事は痛みを経験すればするほど臆病になったりするもので。
    また、色々考えさせられました。

  2. marimari Says:

    10年ほど前に彼との関係に悩んでいたときに
    ふと書店でフロムのこの著書を手にとって読み
    目から鱗が落ちる体験をしました。(彼は今の夫です。)

    よみかえす度に鮮度が甦る力強い名著です。
    フロムが実際に愛にあふれる態度でもって著述したのだろうとしか思えません。心にひびきわたります。

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