1月 17

Hold one's peace.
Ricoh GR Digital / Onomichi / Hiroshima.

 かつて哲学者のジョン・スチュアート・ミルはこう言った。「私は眼鏡を信用している。しかし目もまた必要だと思う」――この台詞はなにを示しているのか。眼鏡と目の緊張関係こそが現代世界の危機である、とサイモン・クリッチリーは述べる。今回は、2004年に岩波書店から出版された『ヨーロッパ大陸の哲学』(サイモン・クリッチリー著)を書評してみたい。「1冊でわかるシリーズ」の一冊だけれども、軽薄なキャッチの射程を超えた、実に素晴らしい本。

 眼鏡とは「知識」の比喩であり、目とは「知恵」の比喩である。あるいは別の言い方をすれば、眼鏡とは事実(What it is? )を探求する哲学の比喩であり、目とは人生の意味(What it should be? )を探求する哲学の比喩である。現代は科学の時代だ。その反動として、科学の拒絶も勢いを増している。人生の意味すら脳科学や進化論に求めてしまう<科学への心酔>ではなく、病気の原因すらスカラー波や占星術に求めてしまう<科学の拒絶>でもない、その中間にある「第3の道」を探るため、哲学になにができるのだろうか。トンデモ科学(疑似科学)の問題を深く考えたい人もぜひどうぞ。


 古代の哲学者たちにとって、哲学は<良き人生を送るとはどういうことか>に関わるものだった。そこでは、哲学とは反省的な生、吟味された生のことであって、吟味されない生は生きるに値しないと前提されていた。この観点に立てば、前回紹介した岡本太郎の実存主義人生論は、人生の意味を真正面から論じているので、立派な哲学といえるだろう。クリッチリーの言葉を借りれば、これらは「知恵」に関する哲学だ。この「知恵」の問題を伝統的に探求してきたのが大陸哲学(ヨーロッパ大陸の哲学)なのだと彼は述べる。たとえば、キルケゴール、フッサール、フーコー、ニーチェ、ハイデガー、マルクス、アドルノ、ハーバマスなど。

 他方、英米の哲学者たちは、伝統的に<ものごとが、それが現に在るような仕方で在るのはいかにしてか>という問いを主に探求してきた(分析哲学や科学哲学)。これらは科学的な問い、「知識」に関する哲学だ。もっとも信頼できる知識をわたしたちに提供するのは、科学すなわち近代自然科学だ。なぜなら、自然科学はある仮説に対する経験的証拠を出すことができ、その主張を証明できるから。科学は本当に素晴らしい。掛け値なしに優れている。ものごとについてより真実味のある説明をあたえてくれるし、なによりも科学のパートナーである「技術」を通して、わたしたちの生活を劇的に改良してきたのだから。白血病を患っている自分の父親がまだ生きていられるのは、あきらかに新薬を開発した科学(自然科学)と技術のおかげだ。この観点に立てば、哲学は「科学的知識が可能になる条件の理論的研究」、つまり「科学という水晶宮の用務員」としての役割を引き受けることになる。事実を扱うのが科学であり、事実の枠組を扱うのが哲学だ、と。たとえばダニエル・デネットのように。

 古代の哲学では、知識と知恵の同一性が保証されていた。<ものごとが、それが現に在るような仕方で在るのはいかにしてか>に関する知識を探求すれば、人生の意味を与えてくれる知恵に至るとされていた。つまり、宇宙がそれ自体として人間の生きる目的を表現していえると考えられていた。ところが、17世紀の科学革命は自然の脱呪術化を生み出した。デカルトが「宇宙は人間の目的などあらわしてはおらず、たんに物理法則に支配されているだけだ」と述べ、宇宙を非人間的で機械的なものだとしたように。

 ここに現代の危機が生じた。知識と知恵、事実と意味、理論と実践、因果的説明と実存的理解のギャップ(ジレンマ)が生じてしまったからだ。現代では、科学者がいくら頑張っても、人生の意味などちっとも明らかにならない。だから「人間は科学よりも宗教が好きだ」などといわれるし、オカルト的な疑似科学が流行したりもする。

 たとえば、茂木健一郎の「クオリア」的な言説が流行したのは、彼が科学から人生の意味を強引に引き出したからだと自分は思う。正当な科学的訓練を積んだ研究者たちは、茂木健一郎の疑似科学が流行していることをひどく嘆く。それはあまりに正しい。しかし、疑似科学が流行しやすいのには、根深い理由が存在している。知識と知恵の分裂、という理由が。批評家たちはしばしば科学に「毒された」近代社会を批判する。しかし、問題は科学にあるのではない(わたしたちは科学にどれだけ助けられていることか)。科学を取れば人生の意味を見失い、他方、人生の意味を取ればオカルトに走らざるをえないという現状、このジレンマが問題なのだ。

 哲学はこのジレンマこそを切実な主題として扱うべきだ、というのがクリッチリーの大きな問題意識だ。知識と知恵のジレンマを調停する「第3の道」を哲学は探求すべきではないか、と。

 現代社会では、自然科学の方法論(因果的な説明)であらゆる現象を説明することが最善だと思われがちだ。「セックスとは脳を窒息させ麻痺させるものである」という脳科学の主張を見て、「あぁセックスとはそういうものなんだ」と納得してしまい、それ以上問うことをやめてしまう。これが科学主義。その対極にあるものとして、逆説的にオカルト主義が生じてくる。オカルト主義は、<自然科学によって提供される因果的説明を別の因果的物語に帰することによって拒否すること>だとクリッチリーは言う。すなわち、オカルト主義とは、科学的な説明形態を、反科学的で神秘的な、しかしなお因果的な説明と置き換えることなのだと。たとえば、病気にかかったのはガン細胞が原因なのではなく、わたしたちの罪深さが原因なのだといったように。Xファイル的な。彼は、フロイトの衝動、ユングの元型、ラカンの現実界、フーコーの権力、デリダの差延ですらオカルト的な危険性をはらんでいると、正当にも指摘する。

 では、「第3の道」とは何だろうか。本書をじっくりと読んで欲しいのだが、簡単にいえば、科学的な世界把握以外にも世界を見るやり方はたくさんあるじゃないか!なんでもかんでも経験的に探求すれば解決するわけじゃない!でも、科学を否定してオカルト主義に走るの(非科学的な因果説明で世界を把握しようとすること)もダメだ!ということ。

 もし因果関係によって世界を捉えようとするならば、科学による世界把握を決して否定してはいけない。たとえば、わたしの父親が白血病にかかったのはスカラー波をあびたからではないし、前世の業が深かったからでもない。クロレラを飲めば解決する問題でもない。白血病は医学的に「骨髄中で血液細胞を作っている造血細胞ががん化して、規則正しい分化・成熟過程をとらず無秩序に増殖する」病気であり、科学の力を借りなければ因果的に対処(治療)できない。しかし、白血病は、科学的・無色透明な因果説明に還元されるものでもない。白血病にかかると、人は何を感じるのか。なぜ悲しみ、なぜ途方にくれるのか。どのように自分の人生を再定義しうるのか。これらは、理解=解釈の言語で記述するしかない。たとえば前回書いた岡本太郎の実存主義は、ひとつのヒントを与えてくれる。

 このような「知恵」に関する問題は、因果的説明で解決できない。たとえ脳科学が発達し、神経科学の用語によって「心」を因果的にすべて説明できるようになったとしてもだ。たとえば、友人が失恋して深く落ち込んで電話をかけてきたとき。「あたしどうしよう…」「ううんとね、君の脳内ではノルアドレナリンが多量分泌されているようだね。セロトニンを処方してもらえば?」――これは科学的・因果的には妥当かもしれないが、まったく奇妙な会話だ。そこに求められるのは、二人で失恋という事態を解釈して物語を織り上げていく作業だ。生きる意味=知恵は、解釈という方法を用いて、切りひらいていくしかない。正解や真実など存在しない。

 同書の解説を引き受けた野矢茂樹は、こう的確にまとめる。科学が「見えるもの」を精密に記述する学問だとすれば、「第3の道」をゆく哲学は、科学の成果を否定することなく、「見えないもの」すなわち科学的態度によって覆い隠されてしまった世界の親密な肌触りを可視化してくれる哲学であると。人間経験の「前理論的な層を露呈すること」によって「世界を見ることを学びなおす」手続きを教えてくれるような哲学であると。

 知識と知恵のギャップは経験的探求(因果的説明)によっては埋められない。しかし、知識と知恵のあいだにギャップを感じたとき、そこが批判的省察の場となる。哲学は、自明とされているものごとを批判し、現在の「危機」を見出し、現在に対する反省的意識を助長する手段でもある。日常世界で見過ごされている抑圧を批判し、実践を導き、わたしたちのちっぽけな意識を解放してくれるものでもある。その意味で、前回の岡本太郎は、哲学(批判・実践・解放)をまっとうしていたといえるだろう。

 最後に書評らしい書評を。本書は哲学入門だ。クリッチリーは「知恵と知識のギャップを埋める」という観点から、哲学史の整理を試みている。ゆえに、彼は、現実世界のリアルな問題にそれほど言及していない。各哲学者の思想を整理すること(大陸哲学と分析哲学の対立を調停させること)に終始している。その点、平板で、内輪トーク的で、つまらなく感じてしまうかもしれない。Amazonのレビュー欄に「印象に残りにくい本だ」という書評がついていたが、さもありなんという感じはする。しかし、これはスルメのような本なのだ。噛めば噛むほど、味わい深い。「わたしがいかに生きるべきか」という問題意識を片時もはなさず、自分自身の生に関わらせながら本書を読めば、いろいろと世界がひらけてくると思う。その時あなたは、きっと、ジョン・スチュアート・ミルのこの台詞をしみじみと実感することだろう――「私は眼鏡を信用している。しかし目もまた必要だと思う」

1冊でわかるヨーロッパ大陸の哲学 (1冊でわかる)
サイモン クリッチリー Simon Critchley 佐藤 透 野家 啓一
岩波書店 (2004/06)
売り上げランキング: 393189
おすすめ度の平均: 3.5

2 テーマは面白いのですが、、、、。
5 刺激的かつ生産的な対立の調停


1 Star2 Stars3 Stars4 Stars5 Stars (1 votes, average: 5.00 out of 5)
Loading...Loading...
7,753 views | add to hatena hatena.comment 2 users add to del.icio.us 0 user add to livedoor.clip 0 user |  http://plaisir.genxx.com/wp-trackback.php?p=170



Amazon Related Search

Leave a Reply