1月 12

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Ricoh GX100 / Nagoya.

 以前、ひとつの夢を追い求めない生き方という記事を書いたけれども、今日は別の角度から人生を考えてみたい。実存主義的な生き方、「命を燃やす」生き方について。この文章は、岡本太郎の著作『自分の中に毒を持て』の書評にもなっています。ある意味、死(自殺)をも肯定する思想。

 むかしむかし、おそらくあれは小学生の頃だったと思うけれども、TBS系列で放送されていた野島伸司原作の『未成年』というドラマが大好きだった。全共闘世代の夢の残滓が滲んだ、今思えば小恥ずかしくなるような青春ドラマで、反町隆史、いしだ壱成、香取慎吾、桜井幸子、(売れない女優時代の)浜崎あゆみなどが出演していた。最終回で、警察に追われているいしだ壱成が、高校の屋上に登り、こんなことを絶叫しながら主張する場面がある。「人生の、人生の価値を測るメジャーなんて、どこにも、どこにもない!」。ではそもそも、人生の価値って何だろう。誰がどうすれば、それを測ることができるのだろう。


 人生の価値を測る一番わかりやすいモノサシは、社会的な成功という結果だ。たとえば金銭であったり数値的な記録であったり。イチロー的な「メジャーリーグで新記録を打ち立てました!」とか、ビルゲイツ的な「これだけの資産を築き上げました!」とか、もっと庶民的にいえば、「自著を出版できました!」とか、「年収が1000万円を超えました!」とか、「皆がうらやましがる若くて綺麗な嫁さんと結婚できました!」とか、「マッキンゼーに入社できました!」「高評価な論文が書けました!」とか。結果としての成功は、目に見えやすく、(親や恋人や身近な友人を含め)誰もが「凄いねぇ」「頑張ったねぇ」「憧れるわ」と納得してくれるものであって、「生きていて良かったなぁ」という幸福感を比較的簡単に満たしてくれる。

 巷に氾濫している「自己啓発」本や、ネット上で洪水を起こしている「ライフハック」的な記事や、実務系の参考書の数々は、まさにこの「結果としての(社会的)成功」に照準している。「努力すれば夢は叶う」としたり顔で語る人がうんざりするほどいるけれども、彼らがいう「夢が叶う」という言葉の内実は、「昇進できた」「有名になれた」「起業できた」「資格が取れた」「人々に認められる専門家になれた」ということでしかない。もちろん、成功する人は立派だ。社会にとっても極めて有益だし、自分も、そのような成功を収める人々に、最大限の敬意を払っているつもりだ。

 金銭的な成功を目指すか、(人々の評価を集めるという)非金銭的な成功を目指すかは、それほど重要な対立軸ではない。どちらも、多数の人々に共有された「社会のまなざし」が人生の価値を定義している点では同じだ。地位であれ業績であれ金銭であれ、人々が定義した「成功」を目指している点が共通している。「結果としての成功」で人生の価値を測る場合、どうしても相対的になってしまう(他のものと比較して自分の価値を定義してしまう)。たとえば「自分が同期の出世頭だ」「(誰もが羨む社会的な価値の高い)司法試験に合格した」といった具合に。相対的なモノサシで測定して、自分が他人よりも劣っていると感じるとき、むくむくっとコンプレックスが沸いてくる。

 その対極にあるモノサシが、実存主義的、岡本太郎的なモノサシだ。彼は『自分の中に毒を持て』という著書の中で、こう述べる。(喚起力あふれる言葉なので、長めに引用します)

 「僕はありのままの自分を貫くしかないと覚悟を決めている。それは己自身をこそ最大の敵として、容赦なく闘いつづけることなんだ。自分の頭が悪かろうが、面がまずかろうが、財産がなかろうが、それが自分なのだ。それは”絶対”なんだ。実力がない?けっこうだ。チャンスがなければ、それもけっこう。うまくいかないときは、素直に悲しむより方法がないじゃないか。そもそも自分を他と比べるから、自身などというものが問題になってくるのだ。わが人生、他と比較して自分をきめるなどというような卑しいことはやらない。ただ自分の信じていること、正しいと思うことに、わき目もふらず突き進むだけだ。」

 「あれかこれかという場合に、なぜ迷うのか。こうやったら食えないかもしれない、もう一方の道は誰でもが選ぶ、ちゃんと食えることが保証された安全な道だ。それなら迷うことはないはずだ。もし食うことだけを考えるなら。そうじゃないから迷うんだ。危険だ、という道はかならず、自分の行きたい道なのだ。ほんとはそっちに進みたいんだ。だから、そっちに進むべきだ。ぼくはいつでも、あれかこれかという場合、これは自分にとってマイナスだな、危険だなと思う方を選ぶことにしている。誰だって人間は弱いし、自分が大事だから、逃げたがる。頭で考えて、いい方を選ぼうなんて思ってたら、何とかかんとか理屈を付けて安全な方に行ってしまうものなのだ。だから、かまわないから、こっちにいったら駄目だ、と思う方に賭ける。」

 「何をすればよいのか、それがわからない、と言うかもしれない。(中略)こういう悩みは誰もが持っている。では、どうしたらいいのか。まず、どんなことでもいいからちょっとでも情熱を感じること、惹かれそうなことを無条件にやってみるしかない。情熱から生き甲斐がわき起こってくるんだ。情熱というものは、”何を”なんて条件つきで出てくるもんじゃない、無条件なんだ。何かすごい決定的なことをやらなきゃ、なんて思わないで、そんな力まずに、チッポケなことでもいいから、心の動く方向にまっすぐに行くのだ。失敗してもいいから。何を試みても、現実ではおそらく、うまくいかないことのほうが多いだろう。でも、失敗したらなお面白いと、逆に思って、平気でやってみればいい。とにかく無条件に生きるということを前提として、生きてみることをすすめる。無条件に生きれば、何かが見つかる。だが、必ず見つけようとガンバル必要もない。(中略)遊び心といってもいい。好奇心の赴くままにといってもいいかもしれない。だが好奇心という言葉には何か、型にはまった安易さを感じる。軽く素直に動けばよいということだ。人生、生きるということ自体が、新鮮な驚き、よろこび、新しくひらかれていく一瞬一瞬であり、それは好奇心という浮気っぽいもの以上の感動なんだ。」

 「人間は自分をきつい条件に追い込んだときに、初めて意志の強弱が出てくる。この点を実に多くの人がカン違いしている。逆だ。何かをやろうと決意するから意志もエネルギーも吹き出してくる。何も行動しないでいては意志なんてものはありゃしない。自信はない、でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また、それしかないんだ。」

 「芸術はもちろん、スポーツも歌も会話もすべて、下手なら、むしろ下手こそいいじゃないか。そう思って平気でやればいい。もっともっと下手にやろうと決心すれば、かえって人生がおもしろくなるかもしれない。上手いヤツほど自分がどの辺の位置に入るのか、まず”基準”のほうを先に考える。しかし、そんな基準なんて度外視して、下手なら下手なりに、自分は下手なんだと決意すれば、もっと自由な歌い方もできるし、スポーツにしても、ナリフリかまわず自由に動くことができるだろう。」
 
 「大切なのは、他に対してプライドをもつことでなく、自分自身に対してプライドをもつことなんだ。相対的なプライドではなくて、絶対感をもつこと。それが、ほんとうのプライドだ。このことを貫けなかったら、人間として純粋に生きてはいけない。(中略) 人間にとって成功とはいったい何だろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。夢がたとえ成就しなかったとしても、精一杯挑戦した、それだけで爽やかだ。人間は、必ずしも成功することが喜びであり大事なのではない。闘って、後にくずれる。その絶望と憤りの中に、強烈な人生が彩られる。」


 
 さて。岡本太郎の実存主義的人生観は、結果としての相対的な成功ではなく、自分自身の主観的な命の密度を絶対視している。結果的に成功しようがしまいが、人に認められようが認められまいが、そんなのはどうでもいい。自分を絶望の中に追い込めば追い込むほど、むくむくと跳ね返すエネルギー=生きる強度が沸き起こってくる。親や恋人を含め、他人にはなかなか理解してもらえないだろう。幸福感なんてものが訪れることも滅多にないだろう(たとえばゴッホが最終的には自殺したように)。だけれども、自分の意志の絶対的な強度こそ人間が生きた証ではないか、というわけだ。

 実存主義哲学の本を読むと、「被投企的投企」という言葉によく出くわす。人間は自分の意志にかかわらず苦難に満ちた世界に投げ込まれる(被投企)。でも自らの意志で自分の生き方を選び取って投げ返すことができる(投企)。頼んでもいないのにわたしはこの世に産み落とされ、生まれも育ちも選べない。大人になってからも非情な運命にしばしば巻き込まれる。それでも人は苦境を跳ね返しながら生きていく。つまり、結果的に成功するかどうかにかかわらず、己の命を激しく燃やして世界に自らを投げ返す行為そのものが人生の価値なのだ、と実存主義哲学は説く。

 「来世で救済されるために現世を慎ましやかに生きよう」と説くキリスト教を、ニーチェは厳しく批判して、「世界が何度めぐり来ても、いまここにある瞬間がかくあることを望む!」という永劫回帰の思想を提唱した。来世のための現世ではなく、現世そのものを直視して生きろ!と叫んだ。同じことが人生論にもいえる。人生の価値を成功で定義する生き方は、将来の「結果としての成功」のために、今という瞬間を奴隷にしてしまう。自分を(「成功」を定義する)他者の視線の奴隷にしてしまう。岡本太郎は、ニーチェと同じく、それらを厳しく批判し、現在と自分自身を激しく直視する生き方を提示している。他者からポジティブに評価されるために生きる自分、将来のためにある現在ではなく、自分自身の絶対的な命を燃やし、今という瞬間を目を逸らさずまっすぐに凝視しろよ!と。

 一見、実存主義は自分を救ってくれるかのように思える。しかし、実存主義ほど苦渋に満ちた生き方は他にない。なぜなら、実存的に生きると、人生の価値を自分の主観で定義するしかないからだ。高学歴も、良いルックスも、地位も、名誉も、資産も、なにも自分を満たしてくれない。他者と比べて「より自分は優れているな」という感覚に由来する相対的なアイデンティティは、どれも偽物だとされてしまうからだ。他人よりも勤勉なこと、他人よりも優しいこと、他人よりも知性が豊かなこと、他人よりも道徳的なことですら、アイデンティティになりえない。他者と比較してもたらされる類の属性は、実存主義から見れば、どれもまがいものだからだ。自分自身の命を、自分の手で激しく燃やし続けることでしか、自己の存在理由を確認できないのだ。これは、ほんとうに孤独で、辛い道だ。

 この孤独な道を選び取った者は、命を激しく燃え上がらせるために、苦境へと苦境へと自らを追い込んでいくしかない。この点は岡本太郎も指摘していた。その他にも、たとえばハイデガーは死の不安に直面することで自らの「存在」がはじめて開示されるとしたし、キルケゴールは絶望こそが究極的なものであることを示そうと試みた。「癒し」「幸福」「快適」を欲しているならば、実存的に生きる道は絶たれているのだ。

 だから岡本太郎はゴッホの自殺をこう評する。「一発の弾が胸をさしつらぬいたとき、ゴッホは初めて、自分が追求していた芸術のほんとうの意味がわかった。それは、どういうことだったかわかるだろうか。芸術なんてもの、それをみきわめて捨てたところから、開けるものなんだ。芸術にあこがれたり、恐れたり、絶叫したり、追いかけたりしているあいだは、まだほんとうの芸術に到達することはできない。(中略)生きていて真実の世界を手にできないでいるより、どれだけ充ちたりていたかわからない。死は敗北だったかもしれないが、ゴッホは誇りをもってその敗北を迎えた」。

 誰かの自殺を思いとどまらせようとするとき、かけることができる言葉は限られている。「生きていればもっといいことがあるよ」「今がどん底だよ」「出口のないトンネルはない」、あるいは「親が悲しむよ」「娘が悲しむよ」「恋人が悲しむよ」といった具合だ。つまり、人生には幸福もありうることを理由にするか、その人を必要とする他者の存在を理由にして自殺を引き留めるしかない。前者の言葉(幸福があるよ)は、実存的に生きる者にとって意味を持たない。己の命が今現在絶対的に燃えているかどうかが生存根拠となるのであって、将来の見通しに現在を従属させる生き方は実存的でないからだ。一方、後者の言葉(君を必要とする他者がいるよ)は、もしかしたら届くかもしれないし、あるいは届かないかもしれない。家族を愛することに命を燃やすことができるならば、彼は死を思いとどまるだろう。だけれども、家族よりも命を捉えるなんらかの価値に殉ずるならば、そうはいかないだろう。弟・テオを残して、一線を踏み越えた、ゴッホのように…

 このように、実存主義の山場は、「他者をどう扱うか」という問題に尽きるのだと思う。己の命が燃える絶対的強度に従うのが実存主義的な生き方なのだから、他者を損ねてしまう可能性が高いのだ。【実存主義は自分のありたいように生きることを良しとしてはいますが、自分というものは他者との関連なしには存在しえないため、人と共に生きるという姿勢がなくては、その自分も成立しないことになります。したがって独善になったり利己主義にはならないと考えます(参照)】とカウンセラーは言う。だけれども、これは問題を何も解決してはいない。自分が「こうしたい」と思った内容と、家族が「こうしてほしい」と望む内容が衝突したら、このカウンセラーはどう対処するのだろう。たとえば、娘が突然「高校を中退したい」と言いだしたならば。「家族を優先しなさい」「家族こそが生き甲斐です」とでも言うのだろうか。ひとついえるのは、この「実存主義者が他者をどう扱うか」という問題に、理論的な解決はありえないということだ。それはまさに実存者が実存として生涯引き受けていかねばならない課題なのだ。ちなみに、「結婚は、卑しいものです」と述べる岡本太郎は、生涯結婚をしなかったという。そして、こんな言葉を残して、96年にこの世から去った。

好きな女性が、
ほかの男と結婚しようが、
こちらがほかの女性と結婚しようが、
それはそれだ、
ほんとうの出会いは、約束事じゃない。
恋愛というものさえ超えたものなんだ。

 最後に。真っ当に生きたいならば、業績を残したいならば、幸せを手に入れたいならば、社会の役に立ちたいならば、実存主義よりも「結果としての成功」を重視する生き方を選び取れば良いと思う。社会を支えているのは、あきらかに、「結果としての成功」を目指して日々コツコツと努力を積み重ねている大多数の人たちだ。だけれども、人生の価値は自分自身でも定義できるのだということを、心の芯に留めておきたい。もし社会の裂け目から抜け落ちてしまったとき、たとえば人生に避けがたい疑問を感じたり、最悪な失恋をしたり、最愛の人を失ったり、事故に巻き込まれたり、重病を患ったり、あなたが奈落の底としかいいようがない事態に突き落とされたとき、実存主義は大きく力づけてくれることだろう。あなたが不安と死に直面し、絶望の深海に投げ込まれたそのときこそ、あなたの命が激しく燃えはじめるのだと、実存主義は語っているのだから。そして、このような思想をも人類はちゃんと耕してきたのだという厳然たる事実に、深く、深く、胸を打たれてしまうのだ。
 

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか (青春文庫)
岡本 太郎
青春出版社 (1993/08)
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5 生きる力をくれる本
5 岡本太郎の生き方
4 破滅への快感


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9 Responses to “己の命を燃やす実存主義的な生き方”

  1. 横浜人 Says:

    感動しました。僕は岡本太郎の「自分の中に毒を持て」を何百回と読んだ人間ですが、ここまで深い洞察でこの書物を語った文章を読んだことがありません。

    僕は今でも、自分が間違った生き方を選んでいるのではないか、不必要に辛く孤独な道を進んでいるのではないかと疑うことがあります。しかし、そのたび、あなたとほとんど同じ筋道で考え直し、また歩き出すことを繰り返しています。

    僕は貫くことができるでしょうか。
    貫きたいと思います。切に願います。自分に対して。

  2. 自分の仕事を作る。でっきるっかなでっきるっかな。 | えんぞう Says:

    […] その辺もgenxxさんの下記エントリに詳しかったりする。 己の命を燃やす実存主義的な生き方 – plaisir.genxx.com plaisir.genxx.com/?p=168 […]

  3. N.A Says:

    上記のコメントに同意します。

    私も自分を貫きたい。

    この記事に救われました。

  4. DADA Says:

    違いますね

  5. RURU Says:

    感動しました。

    そして、とてもわかりやすく読ませていただきました。
    その文章力を尊敬します。

    私のこれまでとそれらを突破してきて今生きている毎瞬が、言葉にするとこうゆうことだったのかと、改めて表現された感じです。

  6. 瀬戸広美 Says:

    記事の内容がとても興味深くて、ご本人について興味を持ちました。
    お友達になれたら嬉しいです。FBにおりますので、もしよろしければ覗いてみてください☆

  7. 匿名 Says:

    今も来世もキリストと共に輝きの中に居たいと思う私です・

  8. カワシマツトム Says:

    私は絶望と死と孤独の底で、キリストと出会って救われた結果、新しい命を授かることが出来たので、彼と神様にその恩を返すために生きるカトリックのクリスチャンです。
    その観点で良くつぶやいていますから、よろしければツイッターのフォローお待ちしています。そんなに人間だけで絶望的な苦労をして美学を追い求めなくても、その背後に神様は確かにいらっしゃいますよ。人間の親に当たる方ですから。絶対的な個性というのも、すでに一人一人が神様から分け与えて頂いたものです。だからこそあなたは絶対に尊い。

  9. 匿名 Says:

    いくつかこの本の書評を読みましたが、あなたのものが一番好きです。

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