12月 20

DG
Ricoh GX100 / Omotesando / Tokyo.

 「人間は科学より宗教が好きだ」とは糸井重里の名言。でもこれって、あまりも当たり前すぎることですよね。当然すぎて、ことさら主張する必要もないくらいに。ところが、これが名言扱いされるということは、「理性的に考え論理的に思考するのが人間の当然の姿である」と信じている人がいるということ。今日は、「論理的思考は人間にとって不自然で異常な状態なんだよ」と再度主張したい。手短に。

 車の運転免許を更新したことがありますか。そこでは、たとえば「飲酒などの不注意から事故を起こして相手をひき殺してしまい、自責の念に絡め取られ、人生がめちゃくちゃになった男の話」を説教くさく語るビデオテープが、たいてい流されることになっている。その後、「飲酒運転で事故を起こす人は、日本全国で、15分に1人いるのです」みたいなデータが付加的に与えられる。「人生がめちゃくちゃになった物語」は、あくまで1事例のサンプルであって、科学的・論理的にはほとんど意味をもたない。他方、「日本全国で○○分に○○人」という情報は、母集団で事象(事故)が発生する頻度を確率的に教えてくれるのだから、科学的・論理的に思考する際に、ものすごく役立つデータだ。ところが、自分を含め多くの人は、「人生がめちゃくちゃになった物語」は心に染みてよく記憶できるけれども、「日本全国で○○分に○○人」という情報はメモしなければすぐに忘れてしまう。

 だから、人間は、物語的・感情的な話には(無意識下の認知処理プロセスを経て)大きな価値を見出すけれど、科学的・論理的な話はほとんど頭に入ってこない存在だと言える。このことは認知心理学の分野で繰り返し確認されている。これまでに何度か紹介しているけれども、おおざっぱにいえば、人間はふたつの思考モードをもっている。ひとつは、論理的・分析的思考モード(下図右側)、もうひとつは感情的・物語的思考モード(下図左側)。人間のナチュラルな思考プロセスは、まず、感情的・物語的思考モードに支えられている。感情的・物語的思考モードは認知処理資源をあまり使わない処理速度の速い自動的なプロセスなので、膨大な情報を処理することができる。だから、日常の多くの意志決定は、感情的・物語的思考モードによって担われている。


Dual-process theories of thinking. (Slovic et al., 2004) 1)Risk as Analysis and Risk as Feelings: Some Thoughts about Affect, Reason, Risk, and Rationality(P Slovic, ML Finucane, E Peters, DG MacGregor – Risk Analysis, 2004)

 このように、論理的に考え、分析的に事象を捉えることは、人間にとって異常な状態なのだ。誤解をおそれずに「物語的な」比喩を使えば、感情的・物語的に意志決定を行う状態は、ゆったりと歩く状態に似ている。普通は歩くし、よほど長時間歩かないかぎり、疲れることもない。でも、論理的・分析的に意志決定を行う状態は、走る状態に似ている。走り続けたらへばってしまうし、走っている間は他のことができないし、ふつうは勝負所でしか走ることはない。

 もちろん、だからといって、人間は「非合理的な存在だ」というつもりはない。感情的・物語的な意志決定が常態であるのは、それが進化的な合理性を持っていたからだ。多くの日常の場面では、感情的・物語的に意志決定することによって、かなりの確率で生存確率を上昇させることができた(参照1参照2)。ただし、その合理性は、数万年前のサバンナ環境における合理性であり、人間は今現在でもサバンナ環境に適応するよう進化的にチューニングされている(参照)。高度な意志決定が求められる現代文明社会では、感情的・物語的に意志決定すると、非合理性が際だつ場合が増えているのだろう。

 とはいえ、人間はまず物語的・感情的に意志決定をする存在だ。この基本は絶対に見据えておきたい。たとえば多くの場合、「相手がまともなことを言っているから相手に同意する」のではなく、「相手のことが好きだから相手の意見に同意する」。ある対象に対する感情的な好き嫌いがまず存在していて、もしその人のことを好きならばその人の書いた文章からポジティブな意味を読み取ろうとするし、もしその人のことが嫌いならばその人の書いた文章のアラを探そうとする。感情的な好き嫌いの判断がベースにあって、その後に分析的・論理的思考モードが発動する。たとえば、「あの人がこんな酷いことを言うのは、きっとなにか人生で辛いことがあったからにちがいない」といった具合に。人がブログを読む場合、大抵はそうだ。多くの場合、文章の内容如何よりも、作者に愛着を持つからブログを見に行くのだ。

 繰り返そう。論理的に考え、分析的に事象を捉えることは、人間にとって異常な状態だ。物語的・感情的思考モードは誰もが生まれつき楽に作動させることができる。他方、論理的・分析的思考モードを自在に使いこなす(論理的・分析的思考モードを使う際の認知コストを低下させる)ためには、努力をともなった修行が必要となる。たとえばマラソンランナーが毎晩家のまわりを走り込むように。その修行は、多くの場合、読書や討論や学校教育によってなされている。高度な論理的・分析的思考スキルを身につけた人間は、現代文明特有の職場に進出し、相応の地位と名声を得ることができる。

 しかし、論理的・分析的思考のスキルを獲得できない人だって大勢いる。そのスキルを獲得できないのは、彼らが異常であるからじゃない。そのスキルを獲得できること、あるいはそのスキル獲得を強要する現代文明社会の方が、むしろ異常なのだともいえる。多くの人はマラソンランナーのように走ることはできない。でもそれって、当たり前のことでしょ?

 であるからこそ、感情的にわめく人間を、「厨房」臭がするからといって一概にバカ扱いはできないし、2chにうごめく罵詈雑言を切り捨てることもできない。2chは便所の落書きだ。でも、その「便所の落書き」は、むしろ自然な状態だ。大多数の人間が抱えるナチュラルで感情的な衝動を、論理的な言葉にねばり強く置き換えていく忍耐力がないならば、文章を書く資格などない。「底の浅い」考えを嘲笑するかのような思想や言葉に、存在価値なんておそらくない。感情的で非論理的で非科学的なうめき声を、もっともっとロジックの世界に掬い上げていきたい。さらにいえば、論理的・分析的に思考しているかのように思われている人間だって、多くの場合、感情的・物語的な価値判断をベースとして論理を紡ぎ行動を起こしている(参照)。感情に光を当てたい。もっともっと光を当てたい。「走る状態」を当然だと考え、「歩く状態」を嘲笑する論評など、誰が信用できようか。だから、たとえ傲慢な思い上がりだといわれようとも、essaさんの次の言葉は忘れずにおきたいなと思う。自戒を込めて。

 例えば、何か高学歴っぽい言い方じゃないと言論と呼べないと言うなら、低学歴の人は言論に参加できない。高学歴っぽい難しい言い方ができる人は、低学歴の人の言葉を代わって引き受けるべきだ。それができてないから、2ちゃんねるに厨房がはびこるわけで、高学歴の人は、そのことを真剣に受け止める義務があると思う。憎しみにあふれた言葉しか出せない人には、それ相応の理由があるわけで、自分がそういうポジションに置かれてないのをいいことに、言論から憎しみを排除するなら、最終的には暴力を甘受するしかない。罵詈雑言は民主主義の原点です。(参照

References   [ + ]

1. Risk as Analysis and Risk as Feelings: Some Thoughts about Affect, Reason, Risk, and Rationality(P Slovic, ML Finucane, E Peters, DG MacGregor – Risk Analysis, 2004)

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11 Responses to “論理的思考は異常な状態”

  1. ワタナベ Says:

    こんにちは。論理的思考が異常だということを論理的思考の真似事で説明しようとしていて面白いですね。論理的思考ができない人間だらけの社会をどうにか良い方向に導くために一部の人間が頑張っているのが実情です。そういったダメ人間は自分の置かれた境遇にたいする不満やいら立ちを自分を不当に正当化することで解消しようとするけど、ダメ人間の被害にあったダメ人間はどうすればいいんでしょう?

  2. Nozomi T Says:

    タイトルに興味をもちこのブログに辿りつきました。
    面白い解釈を拝見して、楽しかったです。ありがとう!

    essaさんの、言論からの感情の排除は、暴力の甘受、に共感します。なるほど、暴力の肯定にまでなるのか、と。
    論理的思考ができる人間は、感情的言論をする人たちとの共通言語を常に
    探さなくてはならない…

    わたしは芸術にその可能性を探しています。

    なんだかこういう類の意見てネットでたくさん拝見しましたが、堂々巡りしてて、遠回りな表現を多用してて、ちょっと滑稽に感じたりしつつ読んでいます。

  3. tomi Says:

    大変興味深いタイトルでしたが,途中から「感情的思考モードの人の方が大勢いるが感情的思考モードの人は異常ではない」という主張?意見?が混じっていてわかりにくかったので,あなたの主張について理解できなかったことが残念です。

    「異常な状態とはどういう状態なのか」「人間にとって論理的な思考はなぜ異常と言えるのか」など,私はあなたの主張に関する説明をもう少し詳しく知りたいです。

    余計なお世話とは思いますが,一言アドバイスです。
    感情的に書いた文章は主張や意見がどこにあるのかがわかりにくいので,論理的思考で文章を書いてみてはいかがでしょうか。
    論理的な文章の方があなたの主張が読み手に伝わりやすいと思います。

  4. ats Says:

    ダニエル・ピンクを思い出しました。

  5. pick Says:

    大変興味深い記事です。僕は論理的モードと感情的モードを完全に使い分けて生きています。ふつうはそれほど意識せず切り替わるらしいのですが、極端な性格ゆえ、切り離してしまっています。
    理系大学生ですが、認知心理学を学びたくなってしまいました(笑)

  6. 匿名 Says:

    論理的思考が異常だったら何だと言うのですか?

  7. 匿名 Says:

    糸井重里の発言がもてはやされているのは「理性的に考え論理的に思考するのが人間の当然の姿である」と考える人がいるからであるとする見解には論理的な飛躍があります。

  8. 匿名 Says:

    宗教は足枷であり、心の拠り所であり、生きる糧という感情的面の不足を補うために人が考えただしたものに対し名前をつけて呼んでいるものであって、
    逆にどうすれば生きていけるかなどを考えていった事から発展した考え方に名前をつけて論理的思考と呼んでいるだけでしかない。

    どっちも根本は、考える事に他ならないのに、
    何故対立していると思うのかがよくわからない。

    要約すると、起源は両方哲学ですよ。

  9. 匿名 Says:

    論理と感情が表裏一体のものであり完全に切り離すことが不可能である以上はこの議論は意義をもたないよ。

    感情的言論が生物にとって自然であることは間違いないけど、それだから論理が異常だと結論付けるのはいささか早計ではないですか。

    ひとつだけ言える確かなことは、論理だ、感情だなんて人間が創り出した概念であり、共に脳の重要な機能であるのだから片方を揶揄するようなそれでいて抽象的で緩慢として科学的論拠に乏しい自己満足の考察をするあなたが異常なのではないでしょうか。

    上からの物言い失礼しました。

  10. 論理的思考力|ロジカルシンキングを鍛えて道を切り開く方法 Says:

    […] 引用元:「論理的思考は異常な状態」 […]

  11. 論理的 | lestnicy Says:

    […] http://plaisir.genxx.com/?p=152 →Amazon Related Search 10 Responses to “論理的思考は異常な状態” ワタナベ Says: 11月 5th, 2011 at 13:34:49. こんにちは。 […]

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