12月 22

christmas2007#13
Ricoh GX100 / Shibuya / Tokyo.

 「ひとつの夢を追いかけている人は美しい!」「なにかを極めた人は素敵!」「黙々と自分の仕事に打ち込んでいる職人は格好いい!」という奇妙な宗教が社会にはびこっている。多くの人は、「ひとつの夢」幻想に苦しめられている。「将来何になりたいですか?」と訊かれ、当たり障りのない答えをはにかみながら返すものの、「ひとつに絞りきれねーよ知るかボケ!」と、内心では憂鬱な思いを抱えていたりする。自分だってもちろんそうだ。10日くらい前に爆発的に話題になっていた美しいエントリー”「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法”は、そのことを見事に指摘していた(超オススメなのでぜひ読んでみてください)。だが、その文章では、ある大事な点が見落とされていた。

 まず、簡潔にその文章の内容をまとめておこう。人は瞬間ごとに多様な興味を持ち、色々なことをやりたくなる。でも、好きなことを仕事にすると、「好き」が自身を縛り付けはじめる。たとえばいくらステーキが好きでも、毎日朝昼晩ステーキばかり食べていれば苦痛になる。とはいえ、「選択と集中」をせずに、そのときの気分であれこれ好きなことを気ままにやっていると、どの分野のスキルも中途半端になってしまい、売り物になるほど専門性のあるスキルが確立できない。選択と集中を行うのと行わないのとでは、生涯で得られる報酬が大きく異なる。報酬には、たとえば年収といった直接金銭で支払われるものと、たとえば異性にモテるといった非金銭的なものがあるが、その両方とも、選択と集中を行った方がはるかに多くなる。だから、選択と集中という牢獄につながれて一生を終えたくなければ、現在の年収や待遇が、あくまで、ごく一時的な、仮のものとして生きていかなければならない。

 ”そもそも、「好きを貫く」という生き方は、いかにも「近代人」的だ。首尾一貫した自立した個人が、理性と主体性をもって社会を形作っていくという、近代の夢見た一つの理想的人間像だ。だが、確固たる「自立した主体」などというものは存在しない”。”自分の「好き」はいつもふらふらと移り変わっていて、そんなふうに、カチっと定義づけることなどできやしない”。”私は何者でもなく、私の意識は分裂して、多重人格で、勘違いの上に勘違いが重なり、しょっちゅう自分で言ったことの正反対のことを言っていて、一貫性がない”。”好きというのは、努力して見いだして貫くようなものではなく、自然体で生きているうちに、結果として動的平衡として好きなことをやっている自分という状態になるのではないか。”

 さて。以上がまとめだけれども、自分もリンク先の文章に全身全霊で同意する。そのような価値観を、意識するにせよ意識せざるにせよ、胸に秘めながら生きてきた。このBlogにも、分裂っぷりが滲み出ていると思う。では、なぜ人は瞬間ごとにうつろいゆく分裂した夢ではなく、「たったひとつの夢」を追い求めなければいけないと感じてしまうのか。リンク先の文章では3つの理由が挙げられていた。第1に、たとえば年収といった金銭的報酬のため。第2に、たとえば高い地位にいる方が「モテる」といった非金銭的報酬のため。第3に、「好きを貫く」という生き方が近代の求める理想的人間像であるため。今回は、第2の理由、すなわち非金銭的な束縛について突っ込んで考えてみたい。

 わたしたちが”一貫したひとつの夢を追い続けなければいけない”と感じてしまう、非金銭的な理由はなにか。それは、異性に「モテる」だとか、そんな次元にとどまる話ではない。<わたし>が関係を築いてきた、顔の見える具体的な他者がいるからだ。<わたし>が裏切ることのできない、身近な誰かがいるからだ。たとえば、「会社を辞めたい」「院生をやめたい」と思っても、いますぐそれを実行に移せないのはなぜか。それは、「<わたし>をここまで育ててくれた上司を裏切れない」「一緒に働いてきて必死になってプロジェクト成功を目指している同僚を裏切れない」「<わたし>の面倒を見て手塩にかけてくれた指導教授を裏切れない」「ここまで育て上げてくれた両親を裏切れない」「側でずっと支え合ってきて結婚まで約束した彼女を裏切れない」と思うからでもある。

 <わたし>という船は、他者という無数の錨で繋留されている。他者は<わたし>に狂おしいほどの一貫性を求めてくる。「名声」「地位」「モテ」というよりも、<わたし>の側にいて肩を寄せ合い顔を突き合わせている身近な誰かが、<わたし>が一貫した人間であり相応の責任を果たすことを要求してくる。

 たとえば自分が今日ブログに「民主党を応援する」と書いて、明日には「自民党を応援する」と書いて、明後日には「公明党を応援する」と書いても、自分にとっては何ら問題はない。でも、ブログの読者は困惑してしまうだろう。たとえば自分が今日彼女に「別れよう」と言って、明日には「好きだよ」と言って、明後日には「俺アフリカに旅立つわ」と言っても、自分にとっては何ら問題はない。でも、彼女は呆れ果ててしまうだろう。「こいつは一体何なのか、ふざけるな!」と、赤面しながら憤慨してしまうだろう。

 わたしたちが「筋を通さなければならない」のは、他者と一緒にいるためだ。<わたし>は他者の一部分を構成しているのだから、<わたし>が分裂してしまえば、他者もバラバラになってしまう。そもそも無意識は矛盾に満ちたものであるのに、意識が一貫した「自己」を演出するのは、他者と協力しあいながらともに暮らしていかなければならないからだった。その進化的・認知科学的な背景については、以前記事を書いたとおりだ。

 気ままに生きる「分裂」を肯定するとき、<わたし>は他者を損ねてしまうことになる。身近な誰かを傷つけ、苛立たせてしまうことになる。だから、「選択と集中という牢獄につながれて一生を終えたく」ないならば、「現在の年収や待遇があくまでごく一時的な仮のものとして生きていかなければならない」だけでなく、大切な誰かを傷つけても平気でいられる鈍感な感性が必要となる。

 現代社会は専門分化した社会だといわれる。自分一人で家を建て、畑を耕し、魚を釣るならば、他者がいなくても自分の力で暮らしていくことができる。だが、今日の専門分化した社会では、スーパーやコンビニやレストランや食材を運ぶ運送会社がなければ、わたしたちはご飯を食べることすらままならなくなってしまう。わたしたちがバラバラに生きれば生きるほど、社会がタコツボ化すればするほど、皮肉にも、<わたし>にとって他者は重要な存在となってしまう。社会が専門分化すればするほど、<わたし>は他者に依存してしまう。

 また、「選択と集中」の牢獄に捕らわれ続けて、専門性を深めていけばいくほど、<わたし>は誰かにとって必要な存在となってしまう。名もない一人の人間であるならば、自由気ままに生きることができるだろう。でも、「選択と集中」を続け、地位と名声を集めれば集めるほど、自分は社会にとって必要不可欠になってしまう。たとえば、自分(Gen)が気ままに生きてもそれほど問題はないけれども、(「選択と集中」を我慢し続けた)日本の首相が気の赴くままに明日辞職すれば、全国民が困惑してしまうように。もし多くの医者が「俺もうこの仕事は飽きたから他のことをやろう」と考え転職すれば、多数の患者が見殺しにされてしまうように。

 たしかに、「首尾一貫した自立した個人が、理性と主体性をもって社会を形作っていくという、近代の夢見た一つの理想的人間像」の欺瞞を、ポストモダンな現代思想は暴き立てた。しかし、専門分化した現代社会は、歴史上かつてないほど、人々に一貫性と専門性を求めている。ポストモダンの分裂的な思想を徹底すれば、まず間違いなく社会は壊滅的な状態に陥ってしまうだろう。だから、多くの人が見落としているけれども、ポストモダン思想を根底から支えているのは、ある種の利己主義だといえるのだ。

 とはいえ、自分は、ポストモダン的・利己主義的で、分裂的な生き方を肯定する。自由気ままに生きたいと思う。たとえ大切な誰かを損ねたとしても、気の赴くままに彷徨いたいと願う。これは自分の政治的価値観であって、今は理由を説明できない。でも、それでもいい。そう生きたい。たとえばイチローは、「野球が自分にとってすべてだ」と夢を語り、実際にメジャーリーグで大活躍し、日本人の希望の星となっている。他方、サッカーの中田英寿は、たしかに「選択と集中」を続けて名声と地位を築いたけれども、今現在は、自由気ままに、分裂的に生きているように思える。「自分探し(笑)」の一人旅なんかしちゃってるわけだから。でも、いまの中田、すごく格好良いと思うんだ。みんなが「なーにやってんだ」と嘲笑している今の中田、大好きなんだ。みんながイチローの近代主義的な「ひとつの夢を追い求めひとつの夢を実現する生き方」を賛美しているそのとき、自分は、中田の分裂的な第2の人生をじっと見つめている。でも、それでいいんだ、きっと。

 ポストモダン的な一貫しない分裂した生き方を肯定すると、かならず誰かをがっかりさせてしまうし、時には傷つけてしまう。一貫しない<わたし>は、他者を損ねてしまう。ポストモダン的・分裂的な生き方を肯定する者は、その痛みと罪を全身に背負いながら、日々を刻んでいく必要があるのだと思う。そのことを決して忘れてはならない。「近代」の欺瞞を暴くとき、あなたは自分と他者を救うと同時に、大切な誰かを傷つけてもいる。でも、いまの自分には、そうするほかない。悲壮な覚悟を決めて、淡々と生きていきたい。こんな、中田英寿へのラブレターまがいの、よくわからない文章を綴ってみたのでした。ごめんなさい。おやすみなさい。


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4 Responses to “ひとつの夢を追い求めない生き方”

  1. edouard Says:

    いつにもまして密度あるエントリだと思ったら、中田へのラブレターだったんですね!
    自分は、なんとなく中田の自分探しに違和感を感じていて、
    でも、それ以上に中田叩きにも違和感を感じていて、
    本エントリは何回か読んだりしました。

    中田との関連で思い出したのですが、
    Genさん村上龍に言及しないような気が、
    そして、それが何だか違和感があるような気がしました。
    自分は村上龍って作家としてだけでなく嫌いじゃないのですが、
    Genさんの村上龍評、そのうち披露していただけたら幸いですw

  2. Gen Says:

    edouardさん、こんばんは。
    コメントありがとうございます。

    分裂的な生き方を肯定すると、多くのものが瓦解してしまいますよね。たとえば分裂的な人間は「責任」を取れなくなってしまう。「責任」は近代主義的な一貫した主体を前提にしているので。「責任」を取れない人間には、誰も何も任せてくれない(責任と自由は表裏一体)。だから、分裂的な生き方は、一見自由なようにみえて、実はものすごく不自由な状態を招いてしまうのだと思います。

    もちろんポストモダン的な「分裂」というのはあくまで程度問題であって、日々分裂している人間は精神病院に送られてしまいます。笑 だから、「ひとつの夢を絶対に貫かなければいけない」という神話の「絶対」の部分に疑問符をつけてみる、という程度の話なのだろうとは思います。

    中田の「自分探し(笑)」バッシングをしている人は、逆に、中田にものすごく期待しているのだろうなと感じますね。「地位と名声を築いた人間は、相応の一貫性のあることを、相応の社会的責任を伴うことをやらなきゃダメだ!おまえならできるだろ!もったいない!なにやってんだ!”キチン”としてくれ!」なーんて期待しているので、期待が裏切られたとき、怒り出すのだろうと。

    あ、村上龍ですかぁ。そのうち言及しますね。『コインロッカー・ベイビーズ』が一番好きです、彼の小説の中で。笑

  3. bis Says:

    はじめまして。興味深く読ませていただきました。

    “ポストモダン的・利己主義的で、分裂的な生き方を肯定する。”

    同意です。自分もそのように生きてきましたし、大きな物語として働く近代的なシステムの過剰に対して私達の有効な処方箋になってきたのも事実だと思います。
    しかし、こういう事をいうと“東浩紀のシンパw”みたいに思われそうで嫌なんですが、こういう解離的な生き方事態がベタ化しているのかなぁと最近自嘲的に思うんです。もちろん、メタ的な位置にいる必要性なんてこれっぽっちもないわけですし、再び近代的な牢獄へあえて自ら入っていくなんてのは単なる反動に対する反動に過ぎないという意味で愚の骨頂でしょう。けれども、アクチュアルな問題として自分と結婚を約束している従順な彼女を目の前にすると、あえて一貫性の牢獄へと入っていくのも悪くないかなとヘタレな私は思ってしまうのですw 結局の所、この問題が個人の美意識の範疇を超えて正当性を担保できない所が難しい所ですよね。と単なる独り言程度の駄文を長々と申し訳ありません。 

  4. Gen Says:

    bisさん、はじめまして。
    コメントどうもありがとうございます。

    >こういう解離的な生き方事態がベタ化しているのかなぁと最近自嘲的に思うんです

    あぁ、本当にそう思いますね。でもこれは、そもそも言語化の罠といえるのではないでしょうか。言語化した瞬間(論を立てた瞬間)、あらゆるone and onlyな事象や瞬間や生き方が、交換可能=ベタなものになってしまう。つまり、ひとつの生き方を定式化(言語化)してしまえば、ただちにそれはベタに転落してしまうのだと私は思います。

    >アクチュアルな問題として自分と結婚を約束している従順な彼女を目の前にすると….

    ここらへんに出口のヒントがあると思うんですよね。「近代的な一貫した自己」を頭ごなしに拒否するのではなく、あるいは「ポストモダン的・解離的な自己」を羨望するのでもなく、まさにその時・その時ごとに遭遇するアクチュアルな問題にしたがって身の処し方を決めていくというか…。つまり、思想的な前提を差し挟まずに、アクチュアルに彼女が愛しいと思えるのならば「一貫性の牢獄」に入っていけば良いのかなぁと。それは決して「ヘタレ」ではないと個人的に思います。ベタを拒否するならば、あらゆる思想は「思想」と呼び得るほどに定式化された時点ですでに無効になってしまっているのかな、とw

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