12月 15

tedium working

Ricoh GX100 / Shibuya / Tokyo.

 「他人をもっと理解したい」「他人にもっと理解されたい」「語ればわかりあえる」「彼女や彼氏のすべてを知りたい」なーんて甘ったれたことを考えている人は、ぜひぜひ読んでくださいな。理解は過少でも過剰でも不幸を招くこと。「完全な理解」と「適切な理解」は異なること。理解という観点から、こころ・身体・セックス・暴力・差別をまとめて考えられること。これらについてのお話です。個人的に、ものすごく根本的で切実すぎるトピック。今回は、自分の奥深くに芽吹いていた漠然とした感覚に明快な言葉を授けてくれた、『他者といる技法』という本をベースに書きます。これは長いあいだ自分に重く深くのし掛かっている書物なので、そのうち解体/再構築してふたたび論じます。
(AM 7:10に末尾追記)

■「理解」とはなにか

 わたしは、あなたが何を考えているのかを丸ごと理解することなどできない。あなたも、わたしの心をすべて理解することなどできない。当たり前すぎる話だ。考えてみて欲しい。誰かが自分のことを、細分漏らさずすべて丸ごと理解してくれたことなど、これまで一度もなかったはずだ。あるいは、自分が誰かのことを100%理解した経験など、絶対にないはずだ。自分の他者に対する、あるいは他者の自分に対する理解は、つねに部分的だった。

 では、わたしはあなたをどうやって理解するのか。わたしは、類型についての自己解釈を他者理解に当てはめて類推するしかない。つまり、常識を参考にしながら自分なりに考えたこと(型)を、相手に投影して、相手を理解したつもりになるしかない。たとえば、君の性別が女で、20歳で、日本人で、沖縄出身で、ネイルアートの専門学校生で、ファッションが大好きで、イケメン好みで、片親に育てられていて、気配りがきくほうで、3ヶ月前に彼氏に振られて、失恋の痛みがおさまってきて…といったように、徐々に徐々に手持ちの類型(常識をフル活用した解釈)を精緻化していくことによって、相手の心に近づこうとする。でも、結局のところ、類型(常識的な思考の構成概念)によって、間接的に類推して他者を理解するしかないのだから、他者理解は、他者の意識全体からみれば部分的なものにすぎない。

 しかし、不思議なことに、誰もが相手を理解したつもりになるし、理解された気になっている。つまり、完全なコミュニケーションは原理的には不可能なのだが、実践的には不都合がない。どうしようもなく困難なのに、やすやすと過ぎていく。これはなぜだろうか。現象学的社会学の大家、シュッツはこう考えた。人々がコミュニケーションの原理的な難しさに気づかずに済むのは、「立場を入れ替えれば、私と他者は同じだ」という「見込み」を持ち続けているからだと。たとえば、相手の失恋の痛みは自分の失恋の経験から類推できるという思いこみ。つまり、もし自分が相手の立場であればこう考えるだろう、そしてその考えはおおむね正しいだろう、という見込みだ。

 もちろん、これは主観的な見込みにすぎないけれども、わたしたちは、いつでも疑うことが出来る多くの事柄を、疑うことができるにもかかわらず疑問視しないことで、コミュニケーションを成立させているのだ。「他者を理解できるはずだ だって彼と私は同じはずだもの」という思いこみだけが、わたしたちの他者理解を支えている。このような「私と他者は交換可能である」という思いこみ(判断停止=エポケー)が積み重なって、わたしたちの社会的世界は構築されていく。皮肉にも、判断停止(思考の放棄)がコミュニケーションを可能にしている。

 他者を理解する可能性は、思いこみに根拠をもつにすぎない。だから、わたしたちはつねに、危険を冒しながら、勇気を持って発言するしかない。たとえば、苦しんでいる人に「頑張れ」という言葉を気安くかけられないのは、わたしたちが、コミュニケーションに潜むこの危険性をうっすらと自覚しているからなのだ。シュッツは、判断停止によって、人々の理解は徐々に深まっていき、社会は安定的につくられていくと希望的に考えていた。しかし、『他者といる技法』の著者である奥村さんは、理解は少なすぎても多すぎてもいけないことを的確にも指摘する。

■理解が過少だと不幸になる—–身体・セックス・暴力・差別

 僕と君が出会う。そのとき、僕の身体と君の身体がそこにともにある。言葉や意識で理解しあう以前に、ふたりはカラダを持っている。僕は君の意識に照準を合わせて、会話を交わす(理解を目指す)こともあるだろう。でも、君の艶やかなカラダ(身体)そのものに照準を合わせてしまうことだってできる。つまり、1.君の意識への照準と同時に、2.君の身体への照準も可能だ。

 1について。君を「理解」しようと試みるとき、照準されるのは君の意識、そこに存在する意味であって、君の身体はそれを読み取るべきシンボルや記号に過ぎない。つまり、僕の意識は、君の身体を突き抜けて、君の意識へと向かう。たとえば、君の顔を見て、「なぜ疲れた顔をしているのだろう?仕事がうまくいっていないのかな?悩み事を抱えているのかな?」と考えてみるように。

 2について。(意識ではなく)君の身体(カラダ)そのものに照準を合わせるとき、暴力セックスというふたつの可能性が生まれる。暴力では、身体こそが直接照準される。身体が、なにかを間接的に呈示する記号ではなく、直接的に暴力という働きが目指すべき対象として存在しはじめる。つまり、身体の記号性ではなく物質性がきわだつ。こころや意味に目を向けないことが暴力の本質なのだ。たとえば、相手を問答無用で(=相手の意識を無視して)殴りつけてしまうように。暴力には理解がまったくかかわらないか、あるいは理解の失敗の結果として暴力が生じる。他方、セックスも、身体に身体として、その物質性において出逢い、身体を通してなにかに照準するのではなく、身体に直接照準する関係だ。たとえば、舐めてあげるから舐めてね、触ってあげるから触ってね、というように。もちろん、セックスの前には、お互いの心に照準する理解の関係があり、その理解の果てにその成功の結果としてセックスが生じるように思われるかもしれない。しかし、理解とセックスは別物だ。(お互いにあまり会話を交わさないまま、クラブで出逢ってすぐにセックスすることはいくらでも可能だ)
 
 こころを理解して欲しいのに、ある段階でそれを放棄され、暴力に訴えかけられると、わたしたちは大きな憤りを感じる。また、理解を求めているのに、会話もなおざりにセックスの対象として見られてしまうと、わたしたちはとても哀しい気持ちになる。つまり、理解が足りないまま身体に照準されると、わたしたちは怒りや哀しみを感じてしまう。理解の過少は居心地の悪さを引き起こす。でも、ある瞬間まで、他者が私を見るまなざしが、こころに照準していて身体はその記号であったのに、ある瞬間から突然、身体をまさに身体として照準されてしまうことは、よくある事態なのだ。

 差別も、理解の過小が引き起こす、もうひとつの不幸な事態だ。「このわたしのかけがえのなさ」を、繊細な類型によって理解するのではなく、たとえば彼は黒人である、というようなはるかにおおざっぱな類型によって理解してしまうとき、固有性において自分を理解されることを望む人々にとって、おおきな苦痛が生じる。奥村さんはこう言い切る。「悪意があろうがなかろうが、その理解の過少が他者を傷つけることがあるとすれば(つまり理解する側の類型が、相手に苦痛を感じさせるほど繊細さに欠けているならば)、そこに差別があるといって良い」と。

 このように、暴力や差別が理解の過少をその本質に持つとすれば、望まれることは、理解の過少を解消すること、より多くの理解を求めること(「もっと理解しあうべきだ!」)になるだろう。ところが、理解は過剰すぎても不幸を招いてしまう。

■理解が過剰でも不幸になる

 さきほど書いたように、原理的にはありえないことだけれども、もし他者に自分のこころを完全に理解されてしまうとしたら、どうだろう。隠していることも含めて、考えていることすべてが他者に理解されてしまったら、苦しすぎるだろう。ここに自由はない。わたしたちの自由は、他者に理解されないことを条件にしている。完全に理解されてしまうとき、わたしなど存在しない。わたし独自の思考がなくなってしまうのだから。わたしの中に、わたしだけの場所などどこにもなくなってしまう。他者に理解されない場所を持つことによって、はじめて、わたしはわたしでいることができる。「だれもわかってくれない!」と嘆くとき、他者にはわからない秘密基地が残されていることを確認して、わたしたちはほっとしてもいる。理解は、わかられたい水準までわかってくれない苦しみと同様に、その水準以上にわかられすぎる苦しみをも生む。理解は過少でも辛いし、過剰でも辛い。少なくともいえるのは、理解はいつでも過少になるか過剰になるかしてしまうということ。「わかられたいちょうどよいほどわかられる」ことなど、めったにない。

 逆に、これも原理的にはありえないことだけれども、もしわたしが他者の心を完全に理解できてしまうとしたら、どうだろう。わかりたくないのに他者の心がわかってしまうことは、もだえ死ぬほどの苦しみを生むだろう。わたしの心は他者の心であふれかえり、わたしがわたしである場所を、他者といるかぎり持ちえなくなってしまう。あらゆる人間の苦悩が理解できるならば、もはやわたしは自己主張できなくなってしまうだろう。彼氏や彼女を「振る」ことなどできず、誰かを愛することもできなくなってしまうだろう。理解をどこかで止め、完全に理解できないからこそ、わたしたちはなんとか他者とともに生きていることができる。

 さらにいえば、差別する者、暴力をふるう者のこころまで完全に理解できてしまったら、もはや差別や暴力から逃れることはできない。差別したり暴力をふるう者にも、それなりの動機が存在しているからだ。わたしたちが差別に反対できるのは、被差別者のこころだけが敏感に理解でき、差別者のこころには鈍感であるからなのだ(たとえばヒトラーを「差別者」「独裁者」という実におおざっぱな類型で理解し、それ以上繊細には理解しないように)。とすれば、差別に反対するためには、理解とは別のこと、むしろ理解をやめることが必要だ。他者を完全に理解してしまうとき、差別の連鎖を断ち切ることができなくなってしまう。暴力も同様だ。相手の暴力性を理解してしまうと、暴力が実際にふるわれる前に、自らの意志で相手に屈伏してしまう(たとえば多くの人はピストルを持っている警官や強靱な格闘家には刃向かわない)。フーコーも散々指摘しているけれども、もっとも効率的な暴力は、暴力を実際に行使するのではなく、暴力の存在を理解(予期)させることなのだ(たとえば核兵器の偉大なる暴力性は「理解」に支えられているのであり、実際に爆発させれば人類が滅んでしまう)。

 このように、理解は苦しみをやわらげるだけではなく、理解を断ち切らざるをえない場合もある。理解は過少すぎても、過剰すぎても不幸を招いてしまうのだ。

■「理解」以外の<他者といる技法>

 僕らは理解のすばらしさはよく知っているけれども、理解が生む苦しみについてはあまり語らない。理解の過少には敏感だが、理解の過剰には鈍感なのが人間という生物だ。理解が過剰なとき、つまりわかりすぎたりわかられすぎて苦しんでいるときも、もっとわからなければ!もっとわからなければ!と思いこみ、かえって理解の過剰の苦しみを増やしてしまうことがよくあるのだろう。なぜかといえば、もちろんこれは、先述したとおり、わたしたちはつねに原理的に理解の過少の状態にいるからだ(わたしたちが常に類型によって他者を理解する限り、他者は完全な理解をすり抜けてしまうから)。僕らはどうすれば一歩前へあゆみを進めることができるのだろう。

 まず、「完全な理解」と「適切な理解」を区別して考えることからはじめよう。「完全な理解」とは、相手をまるごと理解でき、自分も相手にまるごと理解してもらえるという、原理的に不可能な理解の水準だ。これまて何度も書いてきたとおり。ここから見れば、現存するすべての理解は、過少となってしまう。他方、「適切な理解」とは、それより理解が少なくても多くても苦しみを感じる、ある実践的な水準だ。人々が一番居心地良いと感じる、わかりすぎていないしわからなすぎていない、ほどよい理解が「適切な理解」だ。彼女に僕の心をまるごと理解されたならば窒息して呼吸できないけれども、まったく理解されないのは寂し過ぎる。その、理解の過剰と理解の過少のはざまにある、多くの人々が求めている「理解」、原理的には理解は過少であるが実践的には気にならない地点、それが「適切な理解」なのだ。つまり、「適切な理解」は、他人は丸ごと理解できないし、自分も丸ごと理解されることなどない、でも、理解できないまま他人といっしょにいなければならないという諦めを抱えている。

 わたしたちは「完全な理解」が「適切な理解」であると取り違えてしまっている。原理的な「完全な理解」を誤って実践的な「適切な理解」とするとき、わたしたちはいつも理解の過小だけを発見し、理解の過剰は絶対に発見できないことになる。ゆえに、わかりすぎたりわかられすぎて苦しんでいるときも、もっとわからなければ!もっとわからなければ!と思いこみ、かえって理解の過剰の苦しみを増やしてしまうのだ。「理解」についての語彙を増やそう———<完全な理解/適切な理解>、<理解の過剰/理解の過少>…

 わかりあえないとき、いっしょにいるために、もっとわかりあおうとするのではなく、それでもいっしょにいるための技法、わかりあえないままでいっしょにいる技法が必要だ。より多くの理解を求めて、類型をより繊細にするための努力をして、他者と同じはずだ=わかりあえるはずだと思いこむことができる地点を目指しても、なお理解を可能にする思いこみを作動させるには、わからなさが大きすぎる他者が存在する。そもそも、他者とはそのようなものだ。わたしたちはそうした他者と一緒に生きなければならない。殺すわけにも、ゲットーに隔離するわけにもいかない。

 そのような異質な他者があらわれたとき、それでもなお完全に理解しようとするのは愚かだ。理解できない他者を完全に理解できるはずだという思いに固執すると、一方で他者をむりやり同質化してしまい差別が生じるし、他方、いくら努力しても無駄だという無力感から暴力に訴えかけてしまう。完全な理解にとらわれると、理解以外の他者といる技法への回路を閉ざしてしまう。「完全な理解」を「適切な理解」だと取り違える人は、<わたしと他者が完全に同じであることがもっとも適切だ>と暗黙裡に前提していることになる。

■おわりに

 冒頭でシュッツが述べたように、「他者を理解できるはずだ、だって彼と私は同じはずだもの」という思いこみ(判断停止)が、理解とコミュニケーションを支えている。深く考えず、理解しあえるはずだと互いに信じ込むことによって、はじめて僕と君は会話を交わすことができる。これは希望だ。しかし、その「理解できるはずだ」という思いこみが、「必ずすべてを理解できるはずだ」という「完全な理解」を求めるものになってしまえば、だれかが何らかのかたちで傷つくことになるだろう。

 僕たちは「適切な理解」を選び取る必要がある。僕と君が幸運にもわかりあえるかもしれないとひとまず信じこんで(判断停止)、言葉のキャッチボールを交わしてみる。おそらくわかりあえないだろうな。わかりあえても部分的だろう。でも、わかりあえなくても、部分的でも、それはそれでいいじゃないか。適度なあきらめを抱えて生きつづけよう。希望とあきらめを同時にかかえこむのは辛い。でも、おそらくそうするしかない。すくなくとも自分はそう切実に感じながら生きてきた。わからなさをなくそうとするのではなく、わかりあえないことを受け入れ、それでも共存できる「他者といる技法」を、みながそれぞれの人生で模索していかざるをえないとおもう。理解できないから一緒にいられなくなってしまうほど、僕たちは弱くない。僕は僕のままで、君は君のままで、彼は彼のままで、彼女は彼女のままで、それでも一緒に付かず離れず、「こっちの世界」と「あっちの世界」に分離せず、ともに呼吸するために、ひとりひとりがどのような技法を編んでいくことができるのだろうか。


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