たまには上みたいな写真も撮るけれど、心底、人を撮るのが好きだ。人間が大好きだから。スナップ写真を撮るとき、もし腰が引けるなら、ファインダーをのぞかなくてもいいから、もう一歩踏み込もう、被写体に近づこう、そう自分に言い聞かせてきた。でも最近、とても怖い。いろんな意味で。もしかしたら、もうこんな写真は撮れないかもしれないなぁ。今回は、今年日本で撮った、生の輪郭が滲んでいる(と自分が感じた)スナップ写真に、恥拙な文章を添えてみました。あくまで写真が主役なつもりです。GR Blog トラックバック企画『スナップ』に参加。
親と子は遺伝子を50%共有している。子供は、ただ生きているというそれだけのことで、親の幸せを半分は叶えている(参照)。生まれてくる自分は、自分の意志で選び取った自分では決してない。でも、この世に産み落とされ、おぎゃーという声が響くと同時に、自分の力で呼吸をはじめる。
実際に、そして比喩的にも、つまずいたり転んだりすることが、数え切れないほどあった。でも、いつだって、家族という帰るべき基地に守られていた。自分のホームベースになってくれる存在があった。だから、一歩ずつ未知なるものへと踏み出して、両手で暗闇をかき分けて、小さな世界を小さいなりに膨らませていくことができた。
あたかも自分がくるくる回転する磁石であるかのように、父親という磁場に寄り添ったり、反発したり、そんな日々が過ぎてゆく。きっとみんな、くるくると滑稽に回転しながら、らせんを描いて、少しずつ上へとのぼっていった。好きな色もあったし、嫌いな色もあった。でも、父親と一緒に散りばめたカラフルな記憶のボールが、いまでもどこかの淵に埋まっているはずだ。そのボールが、事あるごとに、ぼろぼろと零れてくる。涙のように。あるいは涙として。
母親は自分を包んでいた。まちがいなく。でも、母親にとって自分がすべてじゃない。彼女だって彼女自身の人生を生きている。彼女の中に息づいていて、子供にすら決して顔を見せない、とぐろを巻いた世界が存在する。そんな、大人になれば当たり前にわかることがわからなくて、ふとした瞬間に向けられた背中に、ひどく怯えたりもした。
ぱっくりとひらいた闇の世界、それはきっと、幼い自分の中にも存在した。NHK「みんなのうた」は、悪魔のように、こんな歌詞を囁いていた(参照)。
光の中でみえないものが
やみの中にうかんでみえる
まっくら森の
やみの中では
きのうはあした
まっくらクライクライ
親にも仲間にも届かない、自分の深部に沈殿した、自分でもよくわからない暗い世界。その引力を拒絶しようとしたけれど、はねのけることはできなかった。でも、いま思えば、それは自分らしさを根っこから支える核の胎動でもあった。みんなと一緒に笑っていても、自分だけが抜け殻のようにどこかに取り残されてしまう、そんな感覚。
いつのまにか、成長した。1年前に自転車を漕いで買いに行った洋服が、自分の身体を支えることができなくなっていた。胸板がふっくらと厚くなっていた。そして、好きな人と、手を握って支えあうことを知る。ありえないくらい泣いたし、ありえないくらい笑ったし、ありえないくらい嫉妬した。その感触を「青い鳥」なんて名付けたくはないけれど、自分と似た、等身大の存在を支え、支えられることによって、これほどまでに自分が動揺するとは思わなかった。とにかく、幸せだった。あの頃は、幸せを、根本から無邪気に信じることができた。
そんな幸せは、永遠を深く深く欲していたけれど、「ずっと」という言葉に酔えば酔うほど、幻想が手のひらからするりと逃げ落ちてしまうことを知った。一緒に行く約束を実現できなかった花火大会の、遠くから響いてくる地鳴りに、聴きたくもない音楽の重低音を、精一杯響かせた。絶望と疑問によって自己が妊娠せしめられた。そして、前より深度が広い、だがしかし皮肉屋な自分を産みはじめた。
でもきっと、いつか誰かと、社会を巻き込みながら、社会の中で二人の居場所を作ろうとする日がくる。それが、結婚。未来に託すことができる、濃密な希望である、自分の子供を産むかもしれない。自分にはまだわからない。けれど、結婚は人生の墓場ではないと、今はまだ、率直にナイーヴに信じている。
日々、折り重なるものと、すり減っていくもの。両者にまみれながら、不安定な軌道に乗って、おそらく年輪を刻んでいくのだろう。
帰宅するとき、自分の背中に、なにが滲んでいるのだろうか。外から降りかかる圧力。そして自分が皮膚の内側から押し返す力。作用と反作用が押し合い引き合い、均衡を保つ「張り」が、みずみずしいものであれば、本当に嬉しいなぁ。
突然ガタっと崩れ落ちそうになることは、幾度となくあるのだと思う。投げ出そうと思えば、多くのものごとを、投げ出してしまえるのだから。たとえば金銭かもしれないし、名誉かもしれないし、地位かもしれないし、人間関係かもしれない。過剰に力んで守ろうとしているもの、それらは本当に、いますぐにでもこの場で捨て去ってしまうことができる。ある意味気楽だし、でもとても怖い。
何の重みに、背骨がカーブを描かざるをえないのだろう。
法に護られた世界の裂け目から抜け落ちるか否かは、本当に紙一重なのだ。
生きているかぎり、誰もがどこかで、寝息を立てている。
自分は誰に支えられ、誰を支え、両足でこの世を踏みしめているのだろう。そして、時に踏みにじってしまうのだろう。

Ricoh GX100 / Marunouchi Line.
自分を守ろうとまっすぐにさしているつもりの傘は、いつも傾いていて、片方の腕が濡れているのだろうなと思う。
そして、いくら嫌がっても、いくら喜んでも、等しく晩年がやってくる。そういえば、スコットランドで泊まった宿屋のマッチの裏に、洒落た、クサい言葉が記してあった。”Good morning! This is the first and the only day for your life!”(「おはよう!おまえにとってはじめての、そして唯一のこの日へようこそ!」)。いつだって同じ瞬間などなかったのに。でも、いつだって同じような日々を過ごしてきた感慨を抱くのだろう。そして彼の手首にはきっと、使い古したお気に入りの腕時計がはめられている。
子供は希望を抱えている。精確にいえば、親が子供に、子供を産み落とした世代が子供の世代に、希望とロマンを託している。でも、最大の希望は、彼と彼女の背中に、次なる新たな希望の種が抱かれていることなんだろう。落とさぬように、壊さぬように、途絶えてしまわぬように。
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